胡桃堂喫茶店

特集・神無月篇[令和四年]コーヒー

コーヒーと忘れたくないこと

庭野七夢

コーヒーが好きだ。一口目、深い濃い苦さが喉を、胃を超えて身体に広がっていくような、あの脱力感。深いため息へと繋がる黒い飲み物。
たまに忘れそうになる。喫茶店をやりたいと、東京に出てきた時の思いを。いつかの夜に飲んだ濃くて苦いコーヒーに救われたことを。
色々なアルバイトをした。あまり続かなかった。これをやり続けると思うと気が滅入った。何かを続ける、ということがあまり得意ではない。趣味は色々あったし好きなこともあるけど、今では読書くらいしか続いていない。本を読むだけでは食べていけない。かと言って本を書きたいかというとそれはまた別の話。
コーヒーを淹れるのが楽しいと感じた。豆に湯を落とした時にドーム状に膨らむ。同時に広がる心地いい香り。丁寧に淹れればちゃんと美味しくできる。その奥深い単純さと、所作の美しさに惹かれた。
色々な喫茶店に行ったし、コーヒーにまつわる本を読んだ。ただの黒い苦い液体なのに、想い、やり方、こだわりはそれぞれたくさんあって、その職人のような生き方に憧れた。
なにかを作ることが好きだった。手を動かすと、少しづつ形ができて、求めていたものがこの世に現れる。そういうことが好きだった。やめてしまった色々も、今も続けていればそれで生きていけていたんじゃないかと思うこともある。
これを続けていきたい、これなら続けられる、と思うのがコーヒーだった。それを試すために東京に来た。
たまに忘れそうになる。そして、続けられていることに気づく。まだ3年ほどの期間だけど、飽きるどころか、わからないことばかり増えていく。
喫茶店をやりたいから、と大学を出たのに就職しないでアルバイトをしている。別にそれを負い目には感じてはいないけど、焦りはある。楽な道に逃げてしまいたくなることがある。生活しなければいけないから。
でもお店でおいしくコーヒーを淹れられた時、もしくはお店でお客さんとしてホッと過ごしている時、思い出せる。コーヒーがやっぱり好きだなと、これで生きていくことができたら、なんて素晴らしいんだろうと。
このことを忘れないようにしようと思った。

庭野七夢(にわの・ななむ)

スタッフ。コーヒーと甘いものと猫が大好き。本当は猫になりたいけどなれないので喫茶店で働いています。低気圧に弱い。