短篇小説の場合、強烈に印象に残っているのに、題名を忘れちゃうことってありませんか?J・G・バラードのあの作品、何だったけかなあ?忘れ続け捜し続けて幾十年、ついに発見しました。こないだから買い始めた『J・G・バラード短編全集』の第2巻冒頭の『重荷を負いすぎた男』。
初めて読んだときは1970年代。びっくりしましたね。ビジネススクール講師が郊外生活に疲れ切って職場を辞めた挙句、目の前の世界を消していく話です。その消し方に、十代の自分はショックを受けたんだと思います。テレビや洗濯機、自動車などを見つめながら、主人公はそれらの物理的機能や存在する意味を意識からどんどん消去していっちゃう。そうすると、周囲は「巨大な幾何学的ユニットのように実体のない形」になっていって、挙句の果てに、「いまや彼は立体派(キュビスト)の風景を見つめていた」ということになる。
冒頭に「フォークナー(主人公の名前)はゆっくり狂いかけていた。」という一文があるのに、今回読み直して初めて気づきましたが、そりゃ、これが精神の疾患だっていうエクスキューズくらいはしとかないと、主人公のやってることに説明はつかないんでしょうけど、でも、そう理屈をつけたからって、この小説の理不尽な破壊力はちっとも弱まらない。周囲のものたちが「存在性を失うと、それは薄明りに浮かぶ柔弱で微光を放つ巨大な野菜の髄のようで、その正体をみきわめようとすると、いまにも頭がおかしくなりそうになるのだった。」とか、描写がヤバすぎませんか?文明への絶望と拒絶を描く言葉が、薄気味悪いほど静かなんです。
これが書かれたのが1961年、それ以降、バラードは『沈んだ世界』を始めとする「破滅三部作」で次々にこの世界をぶっ壊しまくる長編を書き始めるわけですが、そんなことも、この短篇は予見してるように見えます。そこを皮切りに、70年代、この作家は、『クラッシュ』を嚆矢とする「テクノロジー三部作」を書いてしまいます。言葉にどれだけの跳躍が許されるのか、言葉がどれだけこの世界を異化することが出来るのか。そんな文学の極北に立って、1979年、ついに最高傑作とも言うべき『夢幻会社』が書かれることになる。
いや、先に進み過ぎましたね。ここではもう一つ、やはり『短編全集第2巻』で出会い直した『爬虫類園』(1963)をご紹介しておきます。人工衛星の打ち上げが人々のレミングのような集団自殺を引き起こすという現代人の堕ちる地獄を、やはり黙示録的なアレゴリーとして描くための冷静で冷徹な筆致に唸る短篇小説です。ジェームズ・グレアム・バラード、ヤバいです、本当に。