その晩はステーキの気分だったので、アパートの近くにあるステーキハウスに行くことにした。
そこは美味しいステーキを食べさせてくれるのだが一風変わった店で、その原因は、オーナーシェフのこだわりが店中に溢れていることに由来していた。
こだわりのひとつに、店内にかかる音楽があった。いつ行っても、わりと大きめのボリュームでハードテクノがかかっていて、ステーキハウス然とした木調の内装と似つかわしくないムードを醸し出しているのだ。
単にテクノが店長の好みだからということではなく、それにも理由があった。テーブルに立てられた手書きのメモには「電子音楽(テクノミュージック)には、消化を促進する働きがあります」と書かれていた。
なるほど。テクノを聞きながらステーキを食べれば、消化が促進されて、最後のひとくちまで美味しく食べられるのである。
テクノのおかげで美味しくステーキを食べた僕が店を出て商店街を歩いていると、花屋に目がとまった。気分が良くなっていた僕は、花を買って帰って部屋に飾ろうと思った。
こんばんは、と言ってガラス戸を引いて入ると、ヒヤリとした空気とともにモーツァルトのヴァイオリンソナタが聞こえてきた。
奥の方で立っているあごひげをたっぷりたくわえたおじさんが店主のようだった。僕は彼に、家に帰って部屋に飾る花がほしいのです、と伝えた。彼はにこやかに僕の顔を見ると、承知しました、と言って切り花を選びはじめた。
紫色の花を中心に、小さな黄色い花を付けた草をアクセントに合わせてくれている。彼が僕を見て感じたインスピレーションにもとづいているのだろうか。
この店はとても清々しいですね、思わず口をついてそんな言葉がでていた。店主は変わらず微笑んだまま、ありがとうございますと言うと、続けて、この店では花たちにモーツァルトを聞かせているんですよ、と言った。
会計を済ませて表に出ると、花を胸に抱えるようにして歩いた。紫色の花は、ほのかにいい香りがした。なんだかすぐに帰ってしまうのがもったいないような気がして、コーヒーを飲んでいくことにした。商店街の外れに確か喫茶店があったはずだ。
コンクリートの壁に付けられた名刺よりも小さな木片には「きりん」と書かれていた。オーク材の重い扉を引くと、薄暗い店内にはカウンター席が奥に向かって5つ6つ並んでいる。一番向こうにひとり、客が座っていた。コースターに細長いアイスコーヒーのグラスが置かれている。
こんばんは、と言って僕は扉に一番近い席に座った。若い男性のマスターが、メニューです、と小さく言って僕の前に置く。メニューを開くと、コーヒーという文字よりも先に「なるべく静かに」と書かれていた。
僕がなるべく静かに、きりんブレンドひとつ、と告げると、マスターも小さな声でかしこまりましたと言って、コーヒーポットを火にかけると温度計を差し込んだ。
彼はグラインダーで豆を挽いて、冷蔵庫からネルを取り出しサーバーにセットした。そのあとは、じっと温度計を見つめている。絶対に話しかけてくれるなというオーラが漂っていた。
ふと気がつくと、この店には音楽が流れていなかった。マスターがコーヒーを淹れるために立てている音だけが店内に響いている。ああそうか、これがこの店の音楽なのだろう。
僕は、家に帰ってテーブルに花を飾ったあとで音楽は何をかけようかと、とびきり美味しいコーヒーを飲みながら考えていた。