胡桃堂喫茶店

特集・弥生篇[令和七年]自分の時間を生きていると感じられるとき

彩りをとりもどす

佐々木りさ

イギリスでは、今年は3月30日が母の日だ。

子どもを授かりたいと思うようになってから
母の日というものがなかなか耐え難い日になっていた。

小さい頃から漠然と「ママになること」が夢だったわたしは
このあとすぐにでも子どもを授かれたらいいなという気持ちで、とある秋のはじまりに結婚式を挙げた。

そんな気持ちでいたのに気がつけば、冬も春も夏もめぐっていた。
仕事の昇進のうわさを聞いていたはずの同級生が子どもを出産したと聞いた。
そんなふうにして、どんどん、どんどん
レースに置いてけぼりになっているような気分になった。
周りの人は全てを手に入れているように見えた。

わたしは仕事も半分投げ棄てかけている上に
ほしいものは何も手に入らない。
誰も何も競っていないのに、わたしだけに見えるレースの中でびりっけつ。
誰も責めていないのに、自分が情けなくて無力で絶望の状態にあった。

ある時、想像も期待もしていないタイミングでレースを抜けた。
はじめての妊娠がわかった。

やっと、やっと、望んでいた瞬間が自分に訪れたのだった。

自分にもこうなれる日が来るのかと、まだまだ疑い深い気持ちと
同時に大きな喜びに包まれた毎日だった。
しかし、それは束の間の感情だった。

病院に行き、赤ちゃんがうまく育っていないことがすぐにわかり
そのあとあっという間に、赤ちゃんとさようならをした。

出会ってからさようならまでは、短いような、長いような、不思議な時間の進み方だった。

一連のことが終わって、何度も自分に言い聞かせた。

こういうこともあるよね、と。

その時はたぶん、本心でそう思えていたと思う。

全てが初めての出来事だったから、きっとこういうことも起こりうるんだと
辛い体験にしては、上手に飲み込んでいたような気がする。

何より辛いというものを上回って
自分の中に赤ちゃんを授かる可能性そのものは存在していると知れたことが
ひとつ大きな喜びの経験になったから。

 

その数ヶ月後、もうすぐ赤ちゃんがやってくるという感覚が
ふわりとからだに降りてきた。
これは、初めての感覚。
小さい頃から、新しいクラスのメンバーとか親戚の危篤とかいいことも悪いことも
予感があたることが多いから、もしかしたらもうすぐ叶うのかもしれない。

ありがたいことに、その予感は的中した。

喜ばしいことと頭でわかっていたものの
心はその喜び方を忘れていた。

自分を守るために、
次に傷つくことがないようにするために、
わたしの心は喜ぶという機能を失った。

そこからはまた、疑い深さと慎重さとを常に心に据えて毎日を過ごしていった。

1日でも、前の妊娠よりも長く続いてくれすように
そればかりを祈り、なかなか前に進まない時間をじっと耐えながら過ごした。

前回の赤ちゃんにお別れを告げた週数を超えて、少しの希望が見えたように思えたけど
それでも日々は、全然、全然、前に進まない。
そして迎えた次の受診日、病院に向かう途中でとある言葉に出会った。
「生きるのを続けることも、やめることも、選ぶのは魂の自由」

この言葉に出会ってしまった時点で、赤ちゃんの命の芽吹きが途絶えてしまったような
直感を抱いた。
悪い予感は、いつも当たる。

赤ちゃんの心臓は止まっていた。

しかもそれがわかった時に、袋の中に赤ちゃんがふたりいたことがわかった。
多胎児と無縁の人生だと思っていたわたしのお腹には
まさかのふたごが宿っていた。

 

ここからのことは実はあまり色々と憶えていない。

手術、その後の受診、検査、
他の疾患も見つかり、その受診、治療。
流産を繰り返していたことからその原因を探る検査も続いた。
体も心も弱ったわたしの免疫はボロボロという言葉がぴったりで
普段かからないような食あたりを何度もおこした。

事実として記録はあるのだけれど
2回目の流産がわかってから半年ほどは
こころの記憶が残っていない。

周りの人がかけてくれるどんな言葉も思いやりも心に響かなかった。
人の優しさを受け入れることのできない自分を嫌いになることが一番辛かった。
その時の感情のあいまいな輪郭だけは、今もなんとなく思い出すことができる。

 

 

時が経って、2024年の秋
今おなかの中にいる子の妊娠がわかってひと月ほど経った頃のこと。

「葉っぱが紅くなっている」

いつも通る道のはずなのに、初めてその木の葉の色に気がついたのだった。

「これまで色が見えていなかったんだ…」

色を感じられた時に初めて、
さまざまなことが起きた1年半ほどの間、色彩というものが自分の中で削除されていたことに気づかされた。

 

悲しくならないように、喜ばないようにする。

失ったときに絶望に襲われないように、今あるものの尊さから目を背ける。

暗闇にいることが恐怖にならないように、鮮やかな彩りという概念を自分の中から消す。

 

 

そうやって自分を守ってきた。

 

 

 

今だって、まだ彩りを完全に取り戻したわけではない。

待望の赤ちゃんを妊娠して、体調も良く過ごせて、順調な日々であるはずだけれど
手放しで喜べる日は果たして来るのか、自信はない。
かつては、いやなくらい流れていた嬉し涙も今は出ることはない。

それでも

公園で小さな子どもが転がしてきたボールの色を
「くまのプーさんに出てくる風船のようなきれいな青色」だとすぐに思い浮かべたり

一本の梅の木から、白と紅の花が咲いているのを見つけて
それを「源平咲き」と呼ぶのだと知ったり

庭に咲いている黄色のペチュニアが
実はグリーンぽいものからクリーム色っぽいものまでグラデーションをなしていることに気がついたり

この春は少しずつ、失った彩りを取り戻すことができている。

 

 

彩りを取り戻すことが

自分の時間を生きていると感じられるとき

多分、いまのわたしにとってはそういうふうに定義することができる。

 

 

 

天国に3人の赤ちゃんがいて
腕に抱ける赤ちゃんとまだ出会ったことのないわたしにとって
母の日はいまだにそうたやすく受け入れられるものではない。

いつの日か、自分が母としての母の日を
彩り豊かに迎えることができますように。

あわい彩りの花たちをこころの中で束ね、
天国にいる赤ちゃんたちとおなかにいる赤ちゃんに想いを寄せる。

佐々木りさ

高校在学中、英国・オックスフォードへの短期留学を機に、古いものを大切に継いでいく文化に惹かれ、英国のとりこになる。以来、英国の文化・言語・お菓子について学びを続けている。
間借りティールーム littleworthを主宰し、お菓子とことばを届ける空間をつくる傍ら、対面やオンラインで小〜高校生と英語を勉強する場をつくっている。2025年初夏に出産予定。