胡桃堂喫茶店

特集・弥生篇[令和七年]自分の時間を生きていると感じられるとき

東国分寺/東京

魂という名の野生動物

「――我が国でいえば『赤線地帯』などで活動する酌婦しゃくふ女郎じょろうの出身ということになる」

 生成きなり色のスーツを着た男が腕組みをし、空の一斗缶の上に、脚を大きく開いて座っていた。

 男の話に、5人の娘たちは釘付けだった。

「ナタリアのペアは、船乗りでいらしたのですよね?」

「うむ、大男でな。しかしだ。背が高く、体つきが細いナタリアとのペアは不思議と釣り合う」

 娘たちはハンカチを握り、各々に歓声を上げる。

「ふたりとも今は一線を退いたが、薄明かりの街灯の下で見せる見事な足捌あしさばきには今も舌を巻くものがあった。踊り終えたナタリアは、決まって結んだ髪の毛をほどくのだが、その自慢のブロンドは長く、ゆうに腰くらいまであってな。その隣でアレハンドロは、自分のクチ髭に浮かぶ汗を指で拭うのだが、そんなふたりの、踊り終えたあとの仕草すらも粋に映る。なんにしてもだ、一度でも見たら忘れられないペアだ。若い頃は、ブエノスアイレスのコンテストで向かう所敵なしだった、という話も頷ける」

「そんなふたりが酒場で出会ったお話も、お聞かせいただきたいですわ」

 5人の娘のうちの誰の声なのか、はっきりしない。

「うむ。屋敷の裏庭に家の軒先を延ばした程度の作業場だ。こんなところで女学生の諸君らに聞かせるには、いささか破廉恥すぎる。異国での土産話も、これくらいに、させていただこう。お前たちも、そろそろ家の手伝いに戻りなさい」

 作業場は、材木に釘を使わない仕口しぐち継手つぎてで組まれていた。そこを走り回っていた少年と少女が、それぞれ幼い子どもの手を引いて、歩いて屋敷へ向かった。

「そう、おっしゃらずに」

 娘たちは作業場の隅で肩を寄せ合い、互いに腰をくねらせた。

「うちの学部生でもない諸君らが、エンジニアリングに関心があるとも到底、思えん」

 まぶたを閉じた男が話すたび、鼻の下にたくわえられたクチ髭が上下する。それは顔から、はみ出すほどに長く、左右に真っ直ぐ伸びていた。

「ここに来た目的は、果たして」

 ひときわ目を引くのは、大地に垂直であるかのような男の座り姿勢だった。

 娘たちは黙って互いの顔を見合う。自らの顔を手で覆い隠そうとするが、それでも喜ぶ姿を隠せない。そのたび、落下傘のように大きく膨らみ、裾へ向かって広がるスカートが揺れる。コソコソと話していたかと思えば、ときおり大きな声で笑った。

「君から直接、聞いてやったら、どうだ」

 男は立ち上がり、上着を脱いだ。それを作業場の柱時計に掛ける。

 ほとんど同時に、納屋の奥で自転車の修理に必死だった青年が、しゃがんだまま額の汗を腕で拭う。青年は振り向き、立ち上がると男に近づいてきた。若さゆえの細さはあるが、身体は筋肉質に見える。

「先生、穴が開いたタイヤを直すことに私は飽きてまいりました。そろそろ手ほどきをお願い致します」

「5分以内に直せるようには、なったのかね」

 着てる白い肌着を自転車の油で汚した青年が、自分が持つ工具を見つめる。半袖から見える腕の先も油で黒ずんでいた。

「まだの、ようだ」

 そう言って男は、自作の調律機に、白いワイシャツの袖をまくりながら乗り込んだ。

「近く、東国分寺駅が正式に廃駅となる」

 自分の尻が収まらない小さな丸椅子に男は座り、度がきついメガネをかけ、鉄製の机へ向かう。そこで機織機はたおりきを操るように、左右の手足をバラバラに動かした。

「あの駅は休止になって長いが、我が国は未だ空襲の影響が尾を引く。物資の輸送は近々の課題だ。引き続き実用車の出番も続く。たとえば近隣なら、赤米の運搬だ」

 男が、体の左右に配置された数十の計器類に顔を寄せる。微細に振れる計器の針を目で追っては、足下のペダルを雪駄で踏んだ。

「あれは出荷が早い品種だ。運搬の時期が、ほかの米よりも前倒しになるのだ。それが都市部へとなれば、さらに時間を要する」

 そうかと思えば、体の前にある拡大鏡を男は、覗き込んだ。その下にある鋼鉄製のプレートについた、幅3センチ、長さ6センチほどの数十のリードを鋼鉄製のヤスリで一本一本、削る。

「そうなれば実用車の出番は、さらに増えるな。ただでさえ、君のように壊れかけに乗っている庶民は少なくないのだ」

 作業の様子を隣で見ていても、指先が動いているのか、わからないほどに男は繊細な手つきでヤスリを使った。

「あれは弟に、くれてやりました」

「では先生、ご機嫌よう」

 娘たちは、仕方なく、という感じで去っていく。どの顔も青年の視線を気にし、チラチラと何度も目配せをした。

「つまりだ。数日もすれば修理を必要とする実用車で、ここは溢れ返る。それに応えるのが我々の使命だ」

「私には、5分以内に穴が開いたタイヤを直す必要があるとは思えません」

「それには同意しよう」

 言葉に詰まった様子の青年は、調律機を操る男へ向かって一歩、踏み出す。

「ではなぜに私へ課すのでございますか」

「佐伯よ、民に仕えるのだ」

 男は動かしていた手と足を止めた。拡大鏡から顔を上げ、体の横にあった数十の計器類を手でずらし、ペダルから脚を下ろす。

「ようやく帰ったか。あの恰好は、どうにも目障りでならん」

 丸椅子を回転させ、かけていたメガネを外すと男は立ち上がり、締めている金色のネクタイを緩めた。

「吸うかね?」

「私はピースと決めております」

「うむ」

 男がタバコに火を点ける。

「先生。はぐらかさないで、お答えいただけませんでしょうか」

 タバコの先端が、一気に燃えて短くなる。男の大胸筋が大きく膨らむように見えた。

「君を見ていると、我が輩の若い頃を思い出す」

 吸い込んだ煙が男の鼻とクチから、ゆっくり流れ出す。

「何をおっしゃいますか。先生も充分にお若いではありませんか」

「うむ」

 もう一度、男はタバコのフィルターにクチをつけた。

「ご両親には反対されているのだろう」

 吸い込んだ煙が、男の鼻とクチから、ゆっくり流れ出す。

「使いの者を寄こすでもなく。お二人とも自ら、わざわざ菓子折りを持って、ここまで来る。一度や二度ではないぞ」

 手近なところに灰皿がないか、男は歩いて探しているようだ。工具が押し込まれた棚、地面に並んだ一斗缶の周り、調律機の下や周りなどを見て回る。

 ガサゴソと男が探し物をする間、沈黙が続いた。

「私の気持ちが変わることは、ありません」

「ご両親も同じことを言った。ふたまわり近く年下の我が輩に頭まで下げてだ」

 見つけた灰皿は吸い殻の山だった。そこに、自分が吸って短くなったタバコを男が押し込む。

「君が生まれるまでに、ずいぶんと、ご苦労をなされたようじゃないか」

 押し込んだことで灰皿から溢れた吸い殻が、ボロボロと地面に落ちた。

「跡継ぎなら弟がおります。そんなことより先生、民に仕えるのだとは、どういう意味でしょうか。先生は私に期待してくださっている、そういうことでは、ないのでしょうか」

「自惚れるな小僧」

 持っていた灰皿を地面に置き、男は落ちた吸い殻を拾って戻した。

 佐伯が男に一歩、近づく。

「寝ても覚めても私は、バンドネオンのことが頭から離れません」

 身体を起こした男と佐伯が向き合う。背丈に、ほとんど差はない。しかし男の身体の厚みは、佐伯の倍以上ありそうだ。

「進学したのも、ドイツ帰りの先生が武蔵野美術学校の図画工作教員養成所で、特別に指導なさると聞きつけたからです」

「その話は聞き飽きた」

「左に33、右に38あるボタン配列に規則性はない。ピアノと違い、隣り合わせたボタンの音階はバラバラ。どのボタンも、蛇腹を開くときと閉じるときでは違う音がする」

「そんな難解な楽器の、しかも修理をどうして、やりたがる」

「5オクターブ、143の音程を一音いちおん一音いちおん、慎重に調律される先生のお姿を拝見して私は、心を鷲掴みにされたからです」

「だからといって踊りまで辞めることは、あるまい。続けたまえ」

「美代子さん以外と踊るつもりは、ありません」

「それは『逃げ』というものだ」

「私のパートナーは、あのかただけです」

 佐伯は男の目を見たまま、その目を離さない。よく顔を見ると、日に焼けた佐伯の顔は、やや赤い。しかし皮膚は下が透けて見えそうなほどに薄く、柔らかそうでもあった。切れ長の目、高い鼻、太くせり上がった眉は日本人離れしている。

「君がウチに通うようになって女学生まで着いて来る始末だ。研究と発明の邪魔で仕方ない」

「ごめんくださいませ。郵便です」 

 声のほうを見ると、作業場の窓から帽子を被った顔が、こちらの様子をうかがっている。

 男は、柱時計の上着に袖を通した。

「にっかいさまの、お宅は、こちらでございましょうか?」

 肩からカバンをげ、小包を持った青年が姿を現した。

日海ひうみだ。貴様、新人だな。同じ間違いをしたら仕事を失うぞ。覚えておけ」

 小包を差し出しながら深く頭を下げ、若い配達員は謝った。

 何通かの封筒も一緒に受け取ると日海は、自転車の様子を見てもらえないかと配達員から頼まれた。ふたりで屋敷の外へ向かう。ペタッペタッ、と日海の雪駄が足の裏を叩く音がする。それを追いかける佐伯が、ふたりを追い越すような勢いで、後ろから声をかけた。

「先生も、歌や陶芸をお辞めになったでは、ありませんか」

 日海と配達員は、しゃがんで自転車の前輪と後輪を見ていた。その上から、佐伯は構わず訴える。

「家も継がずに、こうして、エンジニアリングの道に進まれた。先生なら、私の気持ちをご理解いただけるはずです。これを運命と呼ばずして何と言いましょう」

「佐伯、タイヤがパンクしている」

 佐伯の背筋が伸びた。

「どうしてもと、おっしゃるのなら私にも考えがございます」

 日海は振り返り、立ち上がる。自転車のサドルに片方の手のひらを置いた。

「聞こうではないか」

「ドイツに行きます」

 ふたりを見上げる配達員のクチが開く。

「学生風情が、どうやって行くね」

「幼馴染が、日本郵船で沖仲仕おきなかしをしております。近々、ハンブルクを出た大型船が横浜港に着くと聞きました。出港時に潜り込みます」

「幼馴染とは君のとこか?」

 日海は配達員の顔を覗いたが、見上げる相手はクチを閉じて小刻みに首を振った。

「すぐに見つかるぞ。そうなれば東京湾に捨てられるな」

「ドヤ街の手配師を紹介してもらいました。私も幼馴染と一緒に沖仲仕おきなかしの仕事をやるつもりです。もともと、乗船の費用を作るために国鉄中央本線で荷降ろしの仕事をしていたので、腕には覚えがあります」

 日海が胸ポケットからタバコを1本、取り出した。

「ご両親をどうする」

「日本には戻らない覚悟です」

 制服姿の娘たちが、突き当たりの路地を曲がって、こちらへ向かってくる。

「美代子君をひとりにする気かね」

「先生は、いかがなされたのですか」

 日海は、タバコに火をつける手を止めた。

 電信柱の後ろで娘たちの足が止まる。

許嫁いいなずけが、おられたのですよね」

「ほう、知ったふうなことを言うではないか」

 クチに、くわえていたタバコを日海がしまった。

 先頭の娘は電信柱の後ろに、次の娘は先頭の娘の背中に、そうして順に人の背中に隠れ、佐伯たち3人の様子を娘たちは、うかがっているようだ。あなた行きなよ。あなたが行きなさいよ。あのかたが佐伯さんかしら。コソコソと聞こえてくる。それを振り返って確かめた日海は、配達員に娘たちを追い払うよう頼んだ。

「頼まれてくれるか、助かる」

 小走りで駆け寄った配達員は、娘たちに何度も頭を下げた。そのたびに被っている帽子が脱げ、それを拾っては説明し、頭を下げては脱げた帽子を拾うことを繰り返す。娘たちに詰め寄られる若い配達員の姿を見届けると、日海は佐伯に向き直った。

「二度と初禰はつねさんの話を我が輩の前でクチにするな。あのかたには、あのかたの信念、志というものがある」

「それは美代子さんも同じです」

「貴様、調子に乗るなよ」

 日海のにらみから佐伯は逃げなかった。

 そこに配達員が戻ってこようとしている。娘たちを追い払ったようだ。

「下調べは、したというわけだな。うむ。船便の話も、でまかせではあるまい。むしろ、よく突き止めたと言わざるをえん。その船の荷に、おそらく大量のバンドネオンが積まれている」

 佐伯がまぶたを大きく開いた。

「ブエノスアイレスへ行く予定だった荷だが、中止になってな。それを慶應や早稲田、明治などの大学に備品として、まとめて買い取らせた。戦後のバンドネオンは、ドイツ製であっても粗悪品ばかりだが、研究で使うには申し分ない」

 クチが半開きになったままの佐伯が、瞬きを繰り返す。

「覚悟は、わかった」

「では、お引き受けいただけますか?」

「条件が2つある」

 配達員が手紙を持って戻って来た。佐伯さんに渡してほしいと娘たちに頼まれたようだ。

「うってつけの人物に頼んだものだ」

 日海は鼻の下のヒゲを指先でつまみ、丸めるようにして先端へ向かって何度も、なでた。

 笑顔の日海を無視し、佐伯は奪い取るように、すべての手紙を配達員からむしり取る。

「条件をおっしゃってください」

「うむ。この実用車のタイヤに空いた穴を5分以内に直すことだ。加えて弟子はとらん。その代わりに直せたら、助手として迎えてやらんでもない」

 佐伯は生唾を飲んだ。手紙の束を固く握りしめる。

「先生、男に二言は、ございませんね? 私が、やりきったあかつきには、ご指導をお約束いただけますね?」

「言うな! 小童こわっぱめ!」

 日海が半歩、踏み出した。

「腐っても、この日海藤十郎! 冗談を言うことはあっても目の前の人間をあざむいたことは一度たりともない!」

 佐伯の顔に日海の唾が盛大に飛ぶ。

「偽りのない人生を歩んできた! それは未来永劫、変わることがないぞ!」

 腕で顔を拭った佐伯は、握りしめていた手紙を開き、その紙で自分の手に付いた自転車の油をとる。その様子を見て、日海が人差し指を立てた。

「試技は一度だけだ」

 油のついた手紙を丸めると、それを佐伯は配達員に押し付ける。今度は着ている肌着の裾で、もう一度、佐伯は自分の手の油を拭った。

「やりきってみせます」

「居合わせたのも何かの縁だ。配達員、証人になってくれ。名を聞かせてほしい」

 若い配達員が直立する。

「は、長谷川と、申します」

「では、長谷川君には5分を測ってもらう。裏庭の作業場に柱時計がある。それを見ててもらいたい」

「あ、こ……このあとも配達が、ありまして」

 かすれた声が日海の背中に届いた。

「そうはいかん」

 足を止めた日海が振り返り、はすに構えて顎を引いた。

「ここに3人いて、2人の人間が人生を賭けている。もはや君も我々と運命を共にしているのが、わからんのか」

 クチが開いたままの長谷川から言葉は出てこない。そのまま何度も瞬きをして、丸まった手紙を胸に抱いた。そのまま、そうすることが当たり前であるかのように、長谷川は日海と佐伯の後について、屋敷の裏に移動した。

「いいか佐伯、試技は一度きりだ。次はない。今後、この話もせん。これきりだ。美代子君に誓えるか」

「誓います。互いに自分の時間を生きる。これは美代子さんとの約束でもあります」

「よかろう。長谷川君、証人になってくれ。我々の宣言を確かに聞いたな」

「は、はい……聞きました」

「では始める。長谷川君、合図をしたら30秒ごとに経過時間を読み上げてほしい」

 日海は調律機の丸椅子に腰を下ろした。その向かいで、佐伯は自転車が倒れないようにしながら、あぐらをかく。前輪と後輪を交互に見つめている。

「これからの5分、我々には必要なことが起こるだろう。それが、人生だ」

 日海はタバコに火を点ける。すぐに先端は燃えて短くなり、深く息を吸うと煙を肺に溜め込んだ。

「待ったなし! 位置について、よーい、はじめえ!!」

 一息で吸い込んだ煙が鼻とクチから、勢い良く吹き出した。

 そのさまは、まるで煙や蒸気を吹き上げ、大量の石炭で火室を真っ赤にして走る、蒸気機関車のようだった。

魂という名の野生動物

「ない」「足りない」という世界観だった私に、影山知明さんは「すでにある」ことを教えてくれました。探していたものは、もうあった。そのときの体験を童話風にアレンジにしたのが【思い出のケーキ】という作品です。【喫茶「店と花」】という作品は、読みかた次第でエンディングが異なります。別れの物語として読むと離婚届が、出会いの物語として読むと婚姻届が待っている物語です。これに【あかちゃんになる】を連作として読むという余白、遊びを残しました。【喫茶「店とまち」】の舞台はブエノスアイレスで、年代は1960年代の前後です。短歌にはリアル店舗を忍ばせてあります。夜の『喫茶「店とまち」』から聞こえてくるのが【ポル・ウナ・カベッサ】です。【アフリカローズ】と【店と花】には、同じバラが使われています。【サン・イシドロ/ブエノスアイレス】と【東国分寺/東京】と【サーキュラーキー/シドニー】の3作品は、すべて違う時代です。