「――我が国でいえば『赤線地帯』などで活動する
男の話に、5人の娘たちは釘付けだった。
「ナタリアのペアは、船乗りでいらしたのですよね?」
「うむ、大男でな。しかしだ。背が高く、体つきが細いナタリアとのペアは不思議と釣り合う」
娘たちはハンカチを握り、各々に歓声を上げる。
「ふたりとも今は一線を退いたが、薄明かりの街灯の下で見せる見事な
「そんなふたりが酒場で出会ったお話も、お聞かせいただきたいですわ」
5人の娘のうちの誰の声なのか、はっきりしない。
「うむ。屋敷の裏庭に家の軒先を延ばした程度の作業場だ。こんなところで女学生の諸君らに聞かせるには、いささか破廉恥すぎる。異国での土産話も、これくらいに、させていただこう。お前たちも、そろそろ家の手伝いに戻りなさい」
作業場は、材木に釘を使わない
「そう、おっしゃらずに」
娘たちは作業場の隅で肩を寄せ合い、互いに腰をくねらせた。
「うちの学部生でもない諸君らが、エンジニアリングに関心があるとも到底、思えん」
「ここに来た目的は、果たして」
ひときわ目を引くのは、大地に垂直であるかのような男の座り姿勢だった。
娘たちは黙って互いの顔を見合う。自らの顔を手で覆い隠そうとするが、それでも喜ぶ姿を隠せない。そのたび、落下傘のように大きく膨らみ、裾へ向かって広がるスカートが揺れる。コソコソと話していたかと思えば、ときおり大きな声で笑った。
「君から直接、聞いてやったら、どうだ」
男は立ち上がり、上着を脱いだ。それを作業場の柱時計に掛ける。
ほとんど同時に、納屋の奥で自転車の修理に必死だった青年が、しゃがんだまま額の汗を腕で拭う。青年は振り向き、立ち上がると男に近づいてきた。若さゆえの細さはあるが、身体は筋肉質に見える。
「先生、穴が開いたタイヤを直すことに私は飽きてまいりました。そろそろ手ほどきをお願い致します」
「5分以内に直せるようには、なったのかね」
着てる白い肌着を自転車の油で汚した青年が、自分が持つ工具を見つめる。半袖から見える腕の先も油で黒ずんでいた。
「まだの、ようだ」
そう言って男は、自作の調律機に、白いワイシャツの袖をまくりながら乗り込んだ。
「近く、東国分寺駅が正式に廃駅となる」
自分の尻が収まらない小さな丸椅子に男は座り、度がきついメガネをかけ、鉄製の机へ向かう。そこで
「あの駅は休止になって長いが、我が国は未だ空襲の影響が尾を引く。物資の輸送は近々の課題だ。引き続き実用車の出番も続く。たとえば近隣なら、赤米の運搬だ」
男が、体の左右に配置された数十の計器類に顔を寄せる。微細に振れる計器の針を目で追っては、足下のペダルを雪駄で踏んだ。
「あれは出荷が早い品種だ。運搬の時期が、ほかの米よりも前倒しになるのだ。それが都市部へとなれば、さらに時間を要する」
そうかと思えば、体の前にある拡大鏡を男は、覗き込んだ。その下にある鋼鉄製のプレートについた、幅3センチ、長さ6センチほどの数十のリードを鋼鉄製のヤスリで一本一本、削る。
「そうなれば実用車の出番は、さらに増えるな。ただでさえ、君のように壊れかけに乗っている庶民は少なくないのだ」
作業の様子を隣で見ていても、指先が動いているのか、わからないほどに男は繊細な手つきでヤスリを使った。
「あれは弟に、くれてやりました」
「では先生、ご機嫌よう」
娘たちは、仕方なく、という感じで去っていく。どの顔も青年の視線を気にし、チラチラと何度も目配せをした。
「つまりだ。数日もすれば修理を必要とする実用車で、ここは溢れ返る。それに応えるのが我々の使命だ」
「私には、5分以内に穴が開いたタイヤを直す必要があるとは思えません」
「それには同意しよう」
言葉に詰まった様子の青年は、調律機を操る男へ向かって一歩、踏み出す。
「ではなぜに私へ課すのでございますか」
「佐伯よ、民に仕えるのだ」
男は動かしていた手と足を止めた。拡大鏡から顔を上げ、体の横にあった数十の計器類を手でずらし、ペダルから脚を下ろす。
「ようやく帰ったか。あの恰好は、どうにも目障りでならん」
丸椅子を回転させ、かけていたメガネを外すと男は立ち上がり、締めている金色のネクタイを緩めた。
「吸うかね?」
「私はピースと決めております」
「うむ」
男がタバコに火を点ける。
「先生。はぐらかさないで、お答えいただけませんでしょうか」
タバコの先端が、一気に燃えて短くなる。男の大胸筋が大きく膨らむように見えた。
「君を見ていると、我が輩の若い頃を思い出す」
吸い込んだ煙が男の鼻とクチから、ゆっくり流れ出す。
「何をおっしゃいますか。先生も充分にお若いではありませんか」
「うむ」
もう一度、男はタバコのフィルターにクチをつけた。
「ご両親には反対されているのだろう」
吸い込んだ煙が、男の鼻とクチから、ゆっくり流れ出す。
「使いの者を寄こすでもなく。お二人とも自ら、わざわざ菓子折りを持って、ここまで来る。一度や二度ではないぞ」
手近なところに灰皿がないか、男は歩いて探しているようだ。工具が押し込まれた棚、地面に並んだ一斗缶の周り、調律機の下や周りなどを見て回る。
ガサゴソと男が探し物をする間、沈黙が続いた。
「私の気持ちが変わることは、ありません」
「ご両親も同じことを言った。ふたまわり近く年下の我が輩に頭まで下げてだ」
見つけた灰皿は吸い殻の山だった。そこに、自分が吸って短くなったタバコを男が押し込む。
「君が生まれるまでに、ずいぶんと、ご苦労をなされたようじゃないか」
押し込んだことで灰皿から溢れた吸い殻が、ボロボロと地面に落ちた。
「跡継ぎなら弟がおります。そんなことより先生、民に仕えるのだとは、どういう意味でしょうか。先生は私に期待してくださっている、そういうことでは、ないのでしょうか」
「自惚れるな小僧」
持っていた灰皿を地面に置き、男は落ちた吸い殻を拾って戻した。
佐伯が男に一歩、近づく。
「寝ても覚めても私は、バンドネオンのことが頭から離れません」
身体を起こした男と佐伯が向き合う。背丈に、ほとんど差はない。しかし男の身体の厚みは、佐伯の倍以上ありそうだ。
「進学したのも、ドイツ帰りの先生が武蔵野美術学校の図画工作教員養成所で、特別に指導なさると聞きつけたからです」
「その話は聞き飽きた」
「左に33、右に38あるボタン配列に規則性はない。ピアノと違い、隣り合わせたボタンの音階はバラバラ。どのボタンも、蛇腹を開くときと閉じるときでは違う音がする」
「そんな難解な楽器の、しかも修理をどうして、やりたがる」
「5オクターブ、143の音程を
「だからといって踊りまで辞めることは、あるまい。続けたまえ」
「美代子さん以外と踊るつもりは、ありません」
「それは『逃げ』というものだ」
「私のパートナーは、あのかただけです」
佐伯は男の目を見たまま、その目を離さない。よく顔を見ると、日に焼けた佐伯の顔は、やや赤い。しかし皮膚は下が透けて見えそうなほどに薄く、柔らかそうでもあった。切れ長の目、高い鼻、太くせり上がった眉は日本人離れしている。
「君がウチに通うようになって女学生まで着いて来る始末だ。研究と発明の邪魔で仕方ない」
「ごめんくださいませ。郵便です」
声のほうを見ると、作業場の窓から帽子を被った顔が、こちらの様子をうかがっている。
男は、柱時計の上着に袖を通した。
「にっかいさまの、お宅は、こちらでございましょうか?」
肩からカバンを
「
小包を差し出しながら深く頭を下げ、若い配達員は謝った。
何通かの封筒も一緒に受け取ると日海は、自転車の様子を見てもらえないかと配達員から頼まれた。ふたりで屋敷の外へ向かう。ペタッペタッ、と日海の雪駄が足の裏を叩く音がする。それを追いかける佐伯が、ふたりを追い越すような勢いで、後ろから声をかけた。
「先生も、歌や陶芸をお辞めになったでは、ありませんか」
日海と配達員は、しゃがんで自転車の前輪と後輪を見ていた。その上から、佐伯は構わず訴える。
「家も継がずに、こうして、エンジニアリングの道に進まれた。先生なら、私の気持ちをご理解いただけるはずです。これを運命と呼ばずして何と言いましょう」
「佐伯、タイヤがパンクしている」
佐伯の背筋が伸びた。
「どうしてもと、おっしゃるのなら私にも考えがございます」
日海は振り返り、立ち上がる。自転車のサドルに片方の手のひらを置いた。
「聞こうではないか」
「ドイツに行きます」
ふたりを見上げる配達員のクチが開く。
「学生風情が、どうやって行くね」
「幼馴染が、日本郵船で
「幼馴染とは君のとこか?」
日海は配達員の顔を覗いたが、見上げる相手はクチを閉じて小刻みに首を振った。
「すぐに見つかるぞ。そうなれば東京湾に捨てられるな」
「ドヤ街の手配師を紹介してもらいました。私も幼馴染と一緒に
日海が胸ポケットからタバコを1本、取り出した。
「ご両親をどうする」
「日本には戻らない覚悟です」
制服姿の娘たちが、突き当たりの路地を曲がって、こちらへ向かってくる。
「美代子君をひとりにする気かね」
「先生は、いかがなされたのですか」
日海は、タバコに火をつける手を止めた。
電信柱の後ろで娘たちの足が止まる。
「
「ほう、知ったふうなことを言うではないか」
クチに、くわえていたタバコを日海がしまった。
先頭の娘は電信柱の後ろに、次の娘は先頭の娘の背中に、そうして順に人の背中に隠れ、佐伯たち3人の様子を娘たちは、うかがっているようだ。あなた行きなよ。あなたが行きなさいよ。あのかたが佐伯さんかしら。コソコソと聞こえてくる。それを振り返って確かめた日海は、配達員に娘たちを追い払うよう頼んだ。
「頼まれてくれるか、助かる」
小走りで駆け寄った配達員は、娘たちに何度も頭を下げた。そのたびに被っている帽子が脱げ、それを拾っては説明し、頭を下げては脱げた帽子を拾うことを繰り返す。娘たちに詰め寄られる若い配達員の姿を見届けると、日海は佐伯に向き直った。
「二度と
「それは美代子さんも同じです」
「貴様、調子に乗るなよ」
日海のにらみから佐伯は逃げなかった。
そこに配達員が戻ってこようとしている。娘たちを追い払ったようだ。
「下調べは、したというわけだな。うむ。船便の話も、でまかせではあるまい。むしろ、よく突き止めたと言わざるをえん。その船の荷に、おそらく大量のバンドネオンが積まれている」
佐伯が
「ブエノスアイレスへ行く予定だった荷だが、中止になってな。それを慶應や早稲田、明治などの大学に備品として、まとめて買い取らせた。戦後のバンドネオンは、ドイツ製であっても粗悪品ばかりだが、研究で使うには申し分ない」
クチが半開きになったままの佐伯が、瞬きを繰り返す。
「覚悟は、わかった」
「では、お引き受けいただけますか?」
「条件が2つある」
配達員が手紙を持って戻って来た。佐伯さんに渡してほしいと娘たちに頼まれたようだ。
「うってつけの人物に頼んだものだ」
日海は鼻の下のヒゲを指先でつまみ、丸めるようにして先端へ向かって何度も、なでた。
笑顔の日海を無視し、佐伯は奪い取るように、すべての手紙を配達員からむしり取る。
「条件をおっしゃってください」
「うむ。この実用車のタイヤに空いた穴を5分以内に直すことだ。加えて弟子はとらん。その代わりに直せたら、助手として迎えてやらんでもない」
佐伯は生唾を飲んだ。手紙の束を固く握りしめる。
「先生、男に二言は、ございませんね? 私が、やりきった
「言うな!
日海が半歩、踏み出した。
「腐っても、この日海藤十郎! 冗談を言うことはあっても目の前の人間を
佐伯の顔に日海の唾が盛大に飛ぶ。
「偽りのない人生を歩んできた! それは未来永劫、変わることがないぞ!」
腕で顔を拭った佐伯は、握りしめていた手紙を開き、その紙で自分の手に付いた自転車の油をとる。その様子を見て、日海が人差し指を立てた。
「試技は一度だけだ」
油のついた手紙を丸めると、それを佐伯は配達員に押し付ける。今度は着ている肌着の裾で、もう一度、佐伯は自分の手の油を拭った。
「やりきってみせます」
「居合わせたのも何かの縁だ。配達員、証人になってくれ。名を聞かせてほしい」
若い配達員が直立する。
「は、長谷川と、申します」
「では、長谷川君には5分を測ってもらう。裏庭の作業場に柱時計がある。それを見ててもらいたい」
「あ、こ……このあとも配達が、ありまして」
かすれた声が日海の背中に届いた。
「そうはいかん」
足を止めた日海が振り返り、はすに構えて顎を引いた。
「ここに3人いて、2人の人間が人生を賭けている。もはや君も我々と運命を共にしているのが、わからんのか」
クチが開いたままの長谷川から言葉は出てこない。そのまま何度も瞬きをして、丸まった手紙を胸に抱いた。そのまま、そうすることが当たり前であるかのように、長谷川は日海と佐伯の後について、屋敷の裏に移動した。
「いいか佐伯、試技は一度きりだ。次はない。今後、この話もせん。これきりだ。美代子君に誓えるか」
「誓います。互いに自分の時間を生きる。これは美代子さんとの約束でもあります」
「よかろう。長谷川君、証人になってくれ。我々の宣言を確かに聞いたな」
「は、はい……聞きました」
「では始める。長谷川君、合図をしたら30秒ごとに経過時間を読み上げてほしい」
日海は調律機の丸椅子に腰を下ろした。その向かいで、佐伯は自転車が倒れないようにしながら、あぐらをかく。前輪と後輪を交互に見つめている。
「これからの5分、我々には必要なことが起こるだろう。それが、人生だ」
日海はタバコに火を点ける。すぐに先端は燃えて短くなり、深く息を吸うと煙を肺に溜め込んだ。
「待ったなし! 位置について、よーい、はじめえ!!」
一息で吸い込んだ煙が鼻とクチから、勢い良く吹き出した。
そのさまは、まるで煙や蒸気を吹き上げ、大量の石炭で火室を真っ赤にして走る、蒸気機関車のようだった。