胡桃堂喫茶店

特集・弥生篇[令和七年]自分の時間を生きていると感じられるとき

サン・イシドロ/ブエノスアイレス

魂という名の野生動物

 サン・イシドロ大聖堂が満月に照らされている。

 大聖堂は、空から見ると十字の形をした石造りの建造物だ。十の文字の下の頂点が、建物の正面になっている。そこは高さ約68メートルを誇る塔だ。赤レンガと白い石の組み合わせによる、フランス・ネオゴシック様式の尖塔せんとうで、天へと向かって鋭く伸びる。これが大聖堂前の広場に、長い影を落とす夜だった。

 それを横切る人影がある。

〈マーシャルよりセンへ。急がなくていい〉

 動いていた人影のスピードが緩やかになった。そのまま、大聖堂の影に紛れ込む。

 何台もの車が夜の大聖堂を取り囲むように停まっていた。そのうちの1台から男が無線で指示を送る。

〈正面じゃなく、大聖堂の後方に向かってくれ。そっちで集まってる〉

〈ありがとう、マーシャル〉

 コツコツコツ。石畳を歩くヒールの足音が遠のく。足音は、大聖堂の周りに停められたイタリアのフィアット、フランスのプジョー、シトロエン、アメリカのフォードなどの高級車の脇を抜ける。抜けた先の大聖堂の裏手で、輪になって立ち話をする3人組がいた。そのうち、ひとりだけが建物の壁に背中を預けている。

「あの子は何やってんのよ」

 緑色のドレスを着た女が、ガムを噛みながら自分の髪の毛をネットにしまい、ヘアピンで固定する。隣では、長髪を後ろで一本に結んだ黒いシャツの男が、腕を組んで細かく膝をゆすっていた。

「こんなところでよ、堂々と話してて大丈夫か」

「踊り手の最終確認だ、皆やる。怪しまれることはない」

 白いタキシード姿の男は、黒いシャツの男の肩に手を置いた。その手を黒いシャツの男が払う。

〈マーシャルよりカズヤへ。センを確認。大聖堂の正面から、そっちへ向かった。以上〉

 払われた手で、白いタキシード姿の男が自分の耳たぶを摘んだ。

「カズヤ、了解」

 コツコツコツ、足音がする。

 音のほうへ3人が顔を向けた。

「誰か来る」

 周囲には、高さ3メートルのガス灯が、20メートルほどの間隔で設置されているが、青銅製のポールの先にあるランタンは割れ、光源を失っていた。それでも周りを見渡せるのは今夜の満月だ。夜空は薄曇りで、その雲間から、ときどき顔を見せる満月は、その一瞬で足下の様子までハッキリと見せる。

 コツコツ、コツ。

 近づいてきた足音が止んだ。すると、建物の角に赤いドレスを着た女が姿を現した。女は頭の上から月明かりを浴びている。

「遅れて、ごめんなさい」

 耳が隠れるくらいの長さのボブカットを揺らしながら、赤いドレスの女が3人に近寄ってくる。

「なにやってたんだ、テメエ」

「あんた、遅いって」

 赤いドレスの女が、自分の胸の前で両手を合わせた。

「どうしても抜けられなくて」

「間に合ったな」

 白いタキシード姿の男が、来たばかりの赤いドレスの女を手招きする。3人の輪に、赤いドレスの女が加わった。白いタキシード姿の男が3人へ指示を送る。

「時間に余裕はない、確認するぞ。ダリオとミアの出番は最後だ。お前たち2人のあとに踊るペアはいないし、オークションの進行を気にしなくてOKだから、自分たちが踊り終わった瞬間に、もめてくれ」

 ミアが膨らませたガムの風船が割れる。

「止められたら?」

「一旦、ケンカを止めたフリをして、もう一度、言い争ってほしい。裕福な年配者の集まりだ。誰も自ら動かないと思うが、もし参加者に止められても暴れるんだ。楽団にケチをつけてもいいから、ベンジャミン夫妻の護衛が動くまで騒いでほしい」

 白いタキシード姿の男が、自分の耳たぶを摘む。

「カズヤよりナガタへ。ターゲットの現在地を知りたい」

 カズヤと交信するナガタの眼下には、大聖堂内の礼拝堂があった。炊き出しに並ぶ人の列、その先頭で食事を渡す者、石壁を隔てた隣には調理場も見えた。片膝をついて柱に身を潜めながら、ナガタは大聖堂に集まる人の動きを監視している。

「ナガタよりカズヤへ。ターゲットは礼拝堂内の調理場だ。15分くらい前から、大人と同じコック帽を被って生クリームを立ててる。天井回廊からも、ハッキリ見えてるぞ」

 炊き出しの列に並ぶのは、上半身の服を着ていなかったり、ボサボサの頭に裸足だったりする子どもばかりだ。パンやスープなどの食事をサーブしているのは、正装した大人たちで、白髪の頭で腰の曲がった者、杖をつく者、車椅子に座る者もいる。その一帯をステンドグラス越しに、月明かりが照らしていた。

 月明りは、大聖堂の外で輪になって話す4人も照らし続けている。

「了解、監視を続けてれ」

〈ナガタ、了解〉

「ターゲットを確認できた。今夜も調理場で働かされている」

 ダリオは片方の眉だけを上げ、カズヤを見下ろした。

「人目があるところで接触して騒がれねえのか。薬漬けなんだろ。まともに話せんのかよ」

「手先が器用で仕事を覚えるのが早い子だ。重宝されている。禁断症状が出るほどの薬漬けには、されていない。確認済みだ」

「本当かねえ」

 ダリオは両手で自分の髪を後ろへ撫でつけ、髪を留めているゴムをキツくした。

「話を戻す。ベンジャミン夫妻の護衛が仲裁に入って来たら、俺とセンでターゲットに接触する。センは落札者を装って近づき、これをターゲットに渡してくれ」

 渡された紙袋を胸に抱え、センは中を覗いた。

「それを見たらターゲットは、誰が作ったケーキなのかが、かわかるそうだ。わかれば、すぐに包みを開けて食べる。それが合図だ」

 紙袋の中には透明のビニールで小分けにされた、ひとくちサイズのケーキが、数にして10個ほど入っていた。そのうちの1つをセンが紙袋から取り出す。

「食べなかったら?」

 センの手に、ダリオとミアの視線が集まる。

「作戦は失敗だ。すぐに離脱する」

 センの手から、ダリオが包みごと奪う。奪った包みの裏や表をジロジロと見て、それにダリオは自分の鼻を近づけた。

「どこにでもあるマイセナじゃねえか」

 包みを開けようとするダリオをカズヤが制した。ミアは、センが抱える紙袋のなかを上から覗く。ダリオから取り返したマイセナをカズヤがセンに戻した。

「ターゲットにとっては、思い出のケーキだ」

 カズヤがダリオの肩に手を置く。その手をダリオが払った。

〈マーシャルよりカズヤへ。ベンジャミン夫妻を乗せた車が大聖堂前に到着した。以上〉

 ダリオに払われた手で、カズヤが自分の耳たぶを摘む。

「了解、カズヤよりナガタへ。ベンジャミン夫妻が礼拝堂に入ってきたら、監視の対象をふたりに替えてくれ」

〈ナガタ、了解〉

 クチャクチャと音を立てて噛んでいるガムをミアが大きく膨らませたり、縮ませたりしている。

「本当に黒幕がさ、自ら来るの?」

「来る。奴らがメキシコから上のルートを開拓するのに、仲介役のベンジャミン夫妻は好都合な存在だ。絶対に利用する。そのために今夜のオークションで、必ず花を持たせるはずだ」

 カズヤが、自分のポケットに手を入れた。

「忘れないうちにダリオとミアも、これを耳たぶの裏に着けておいてくれ。マーシャルやナガタからの指示も聞こえる」

 ガムを膨らませながら、ミアは着けていたイヤリングを外した。

「大聖堂の正面側に停めた車のなかで、マーシャルが待機している。ナガタは礼拝堂内の天井回廊だ。大聖堂内部でターゲットを監視している」

 受け取ったふたりは、1センチ四方の透明なテープを耳たぶの裏に貼った。イヤリングをつけ直すミアよりも先に、ダリオが耳たぶの裏を何度か触る。

「ダリオからマーシャルへ。着けたぞ。音声はクリアか?」

〈クリア。こちらからは、どうだ?〉

「問題ねえ、今夜も頼むぞ」

〈任せとけ〉

 イヤリングをつけ直したミアは、何度も耳たぶを触る。

「やっと反応した。ミアからマーシャルへ。次は赤いドレスがいいんだけど」

〈次は、ない。作戦は今夜でケリがつく。以上〉

 噛んでいたガムをミアが吐き捨てた。

 カズヤがタキシードの蝶ネクタイを直し、袖口のカフスボタンを締める。

「いつも通り、指示を実行できないときは必ず離脱しろ。その場合、この国を出て次の連絡が来るまで姿を消すんだ」

〈マーシャルより全員へ、来たぞ! 大聖堂の正面に停まったロールス・ロイスから、マジョラルが降りてきた。右腕のアレハンドロも一緒だ。もうすぐ大聖堂内に入る〉

 ダリオが唾を吐く。

「変態と鬼畜め、来やがったな」

 カズヤが自分の耳たぶを摘む。

「カズヤより全員へ。今夜の回収地点は、ここから北東へ約5キロ先のマリーナ・デル・ノルテだ。そこからボートで、夜が明ける前に、ターゲットを含めた7人全員で沖へ向かう。以上」

 カズヤが耳たぶから手を離し、そのまま腕を前に出すと、その場にいる4人全員で腕時計の時刻を合わせる。それを満月が照らす。照らされた腕時計は、月明かりをカズヤの顔に反射させた。

「羊の皮を被った悪魔の集団から、あの子の時間を取り返すぞ」

 胸元のロザリオを握りしめたミア、ダリオ、センが十字を斬り、4人の影が大聖堂の影に隠れる。満月の夜に響く4人の足音は、大聖堂の正面へ向かって行くにつれ、少しずつ小さくなり、最後には建物の中へと吸い込まれた。

+2

魂という名の野生動物

「ない」「足りない」という世界観だった私に、影山知明さんは「すでにある」ことを教えてくれました。探していたものは、もうあった。そのときの体験を童話風にアレンジにしたのが【思い出のケーキ】という作品です。【喫茶「店と花」】という作品は、読みかた次第でエンディングが異なります。別れの物語として読むと離婚届が、出会いの物語として読むと婚姻届が待っている物語です。これに【あかちゃんになる】を連作として読むという余白、遊びを残しました。【喫茶「店とまち」】の舞台はブエノスアイレスで、年代は1960年代の前後です。短歌にはリアル店舗を忍ばせてあります。夜の『喫茶「店とまち」』から聞こえてくるのが【ポル・ウナ・カベッサ】です。【アフリカローズ】と【店と花】には、同じバラが使われています。【サン・イシドロ/ブエノスアイレス】と【東国分寺/東京】と【サーキュラーキー/シドニー】の3作品は、すべて違う時代です。