胡桃堂喫茶店

特集・弥生篇[令和七年]自分の時間を生きていると感じられるとき

自分を吾と知る時

こばやしゆうこ

14のとき辞書を引くのが好きだった

分厚い小学生の時に卒業すると小学校からもらえるのが印鑑と辞書だった。

当時わたしは詩を書くことで生き延びてきたと言ってもいい環境に暮らしていた。

どこにも逃げ場がなく攻撃から守らないといけないのに守られないところ。

そんな時

私、自分の表現にすこし違和感を感じ始めていた。

辞書をみていくと
吾と言う文字が

そこから私はなぜかこの値の知れない
古風な

がすきになったのだ

 

音楽はブルーハーツ ハイロウズ 反抗すらできない気持ちの行き場は

その吾に守られていった。

感覚だった。

その感覚を思い出した大人になりその言語を調べていると
我は他人を意識して
吾はそこが薄れていくと違いをぼんやりとかかれていた。

そして、漢字の意味は
祈りの効果を守ると言う意味

まもる
と言う意味の字だったらしい。

自分の時間は
他者とさかえめのなく

まるでよせては返す
浜辺の砂と海の海水のような時間が
かなでる
音がいい。
無音の1人だけの守りたいわたしをもつときに
ひとりだったわたしは自分の時間は守りの中で固めた

雨水も降れば地面がかたまる。
わたしの生きた39年
人とうまくいかないことがおおくその

1人で受けた雨は ダイアモンドのようにきれいでかがやき硬いものなった

助けられたことをもはや信じれないくらい捻くれてしまった。

自分のじかん
を生きていくとはどう自分の土壌に水を染み込まさ生きてきた時間と繋がりも自分の抜け殻の地層にその今の水を過去の水をしみわたらせ
社会の波と美しくメロディや波のようなダンスを
反射させてひからせて奏でるというものなんだろう。

つちだけの私が生きたのならば 吾となるだけで 止まって 命も消えたいたかもしれない。
守るまもられあたえあたえられ
そこでけずられながされ
けずりながして
私の時間がはじめて社会の海原で
航海という名の風を受けれるのだろう私として。吾でなくても。
それは誰かの幸せを笑顔を願う時に

自分がいるのだから
優しくあったかく震えて叫んでいく
愛を持って。

こばやしゆうこ