機内のシートベルト着用サインが消えた。
明かりも消された機内で、フルフラットのベッドから女が身体を起こす。アイマスクを取り、左の手首を見た。舌打ち。すると背後から声をかけられる。
「おはようございます。お休みには、なれましたでしょうか」
ハスキーな男の声だった。
機内には、ゴーッという低くて規則的な連続音が響く。まるで、それが耳の奥で振動しているかのようだ。それに
女が声のほうを見上げる。
「案外、静かね」
両手を広げ、女は身体を伸ばす。腕や肩、ふくらはぎを軽く揉む。大きくクチを開け、あくびをし、シートベルトを外す。
「エンジンは後方ですから、多少の違いがあるかもしれません」
席の前に男が
「ただ、客室内の与圧換気システムは常時作動しています。空気を循環させるためのファンやダクトの音は、どうしても」
「どいて。トイレへ行きたいの」
立ち上がろうとする女に男が自分の白い歯を見せた。
「お客様、恐れ入ります。私は当機でチーフ・パーサーを務めております、ラーションと申します」
「聞こえないの、どきなさいよ」
男の口角は、上がったままだ。
「当機は巡航高度3万7千フィートにて順調に飛行中ですが、これから赤道を通ります。雲が発達しやすく、上空の天候は不安定です。再びシートベルト着用サインが点灯する可能性がございますので、いましばらく、お席で、お過ごしいただけないでしょうか」
「ごちゃごちゃと、うるさいわね」
「ミス・サエキ。水を入れますか?」
女は返事をせず、顔を背けた。座席横のタッチパネルを触る。
「その呼びかたは止めて」
閉まっていたウィンドウシェードが窓1枚分だけ上がりはじめた。
「今、何時なの」
「現地時刻は午前5時40分、ブエノスアイレス時間なら午前2時38分です」
「ギアナ高地周辺かしら」
「おっしゃる通りです。その南西上空を飛行中です。エセイサ国際空港の国際線ターミナルAには、定刻通り現地時間の午前6時頃に到着する予定です」
「あっちが少し明るい」
男も窓の外へ視線を向ける。
「夜明けまでは、まだ少し、ありますので」
再びウィンドウシェードが下がった。
女が前を向き、深呼吸をする。
「お願い、します」
ふてくされたような声だった。
男は白い歯を見せたまま、通路後ろのカーテン奥へと消え、すぐに水が入ったピッチャーと、腕に何かをぶら下げて戻ってきた。
暗闇に目が慣れてくる。
女の席は、機内の窓4枚分の広さがある。その1つに小さくて短い、カウンターのようなテーブルのような部分があった。グラスを1つか2つくらい置くことができる程度のスペースだ。だが、そこにグラスはない。あるのは備え付けの一輪挿しだ。そこへ水が注がれる。すると女の肩から、こめかみの位置にある読書灯がピンポイントで一輪挿しを照らした。ガラス製の一輪挿しに水が入っていく。半分より、やや少ない量が注がれた。よく見るとアールデコ調のデザインだ。そこに濃い黄緑色をした、太い茎が一本、ゆっくりと収まる。
ひまわりだった。
「ご一緒に映画は、いかがでしょうか」
差し出されたカゴのなかを見ると、そこには有線イヤホンとポータブルモニターがあった。女が手に取ると、男は通路後方のカーテン奥に戻った。
女は髪の毛を耳にかけてから、絡まったケーブルをほどき、イヤホンを両耳に押し込む。反対側のジャックはモニターに挿した。すると映像と音声が自動で再生され、セミオープン型だった女の席が、自動的にパーティションで仕切られ、個室化する。
〈おはよう、ミス・サエキ。例によって私だ〉
イヤホンの音声は低い声の男で、滑舌がよく、聞き取りやすい声だった。
モニター画面に、モノクロの古い写真が映し出される。写真には、正装した十数名の外国人が並んで立っていた。彼らは白人にもアラブ系にも見える。背景に写っているのは、石造りの螺旋階段だ。中央には男と女、その間に立つ幼い3人の子どもが見える。どの顔も無愛想だった。周りを数人の召使いのような人物が取り囲んでいた。
〈今回は救出作戦だ。ターゲットは1名、マキシミリアーノ・アルフォンソ・ペレイラ。通称アリ。依頼主はヨーロッパの王室だ〉
映像が、そのなかのひとりの男の子をクローズアップする。
〈ターゲットは王室の血を引いた正当な王位継承者だが、跡目争いの犠牲となってしまった。いわゆる身代金目的の誘拐だ〉
女がイヤホンのボリュームを上げる。
〈5年前の話だ。金に目がくらんだ王室の給仕係が、犯行グループを手引きした。だが金と引き換えに、その子は帰ってこなかった。この事実は王室内でも、ごくごく限られた者しか知らない。具体的には現・国王の父、母、その祖母の3名だ〉
画面は縦に2分割された。画面左では、海に浮かぶクルーザーの船首で、ビキニ姿の女性たちに囲まれた青年が、両手にグラスとボトルを持っている。画面右には、1枚の書類らしきものが映っていた。書類は布のような紙のような質感に見える。両端が少し丸まっており、金の縁取りと手描きの王冠の印章があった。それがクローズアップされた。書類の右下に紫色のインクで書かれた筆記体のサインが2つと、溶けた真紅の蝋で紋章が押されている。
〈ひと月ほど前に、第1継承者の長男が、正式に王位の継承権を放棄した。すでに公務からは離れていたが、このたび公文書へのサインを済ませた。まだ王室内だけの騒ぎだが、関係者は跡継ぎ問題に頭を悩ませている。次男のアリは表向きは病気として療養中。実際は、連れ去られたままの行方知れずだ。このままだと長女が王位を継承することになるのだが、その場合は国内の法律、継承制度を変えなければならない。身内の派閥争いもあって、王室といえど勝手に法律を変えるのは難しい事情もある。簡単な話ではない。そんなときにだ。アリの消息について、王室に情報が舞い込んだ〉
画面左には、白馬に乗った小さな男の子の写真が映った。短髪のブルネットで、年齢は5歳、6歳くらいだろうか。画面右では、薄汚れた少年が黒いゴミ袋を抱えている。
〈左の写真は、連れ去られる数日前にターゲットを撮った一枚だ。そこから5年が過ぎた現在は、アルゼンチンのペドフェリア組織に、かくまわれている。それが右の写真だ。組織の表の顔は慈善事業の団体で、その規模・勢力ともに大きい。表の顔も裏の顔も、中南米で最大の組織だ〉
ウィンドウシェードが窓1枚分だけ上がりはじめた。女が窓の外の暗闇へ顔を向ける。
〈ターゲットの覚醒レベルは高く、奪還後の回復が期待できる状態だ。我々の工作員が目視している。アサインメンバーと合流後、彼らから最新の状況を聞き取ってほしい〉
女が肘をついて窓に頭を預けた。すると、真っ暗だった外の様子が変わり始める。窓の上半分には紫色の空が現れ、次第に青みが増していくように感じた次の瞬間、空一面を金色が覆う。その光源が雲のなかから姿を見せ、雲と空の境目で
日の出だ。
〈今回、君にはダンサーを演じてもらう。アルゼンチン・タンゴの本場で、踊りを学ぶためにブエノスアイレスに来た、という設定だ。パスポートや身分証、現地通貨のペソも、いくらか用意した。座席の下だ〉
窓の下半分には真っ白な雲海が広がり、雲と空の境が金色に縁取られていく。
〈現地では、まず酒場を回ってくれ。君のような若い女性が踊りを習いたいと言えば、現地の男は、みんな気前よく色々な情報をくれるはずだ。噂にもなる〉
太陽が一輪挿しの、ひまわりに届く。
〈今回のチームは君を入れて5名だ〉
その花びらに女が触れた。人差し指で5枚を数える。モニター画面には女を含めた5人の顔写真と名前が映し出されていた。
〈ほかの4名は既に現地で合流している。例によって指示を実行できない場合も必ず離脱してほしい。その場合、国外で次の連絡が来るまで姿を消すこと〉
画面はマントを羽織り、片膝をついて王冠を授かる者の写真に切り替わった。
〈余談になるが、依頼主の現国王はイスラエル国外に散らばった数少ないスファラディだ。世界を取り巻くカバーストーリー、その歴史を暴く覚悟を持った人物でもある。彼らはターゲット奪還後に全ての経緯や、利権によって
女が座席上部にある【CALL】と書かれたボタンを押した。席と通路を仕切っていたパーティションのパネルが緑色に光る。
先ほどの男がワインボトルの入ったアイスボックスを持ってきた。
「お客様。デザートワインは、いかがでしょうか」
パーティションが開く。
「シャンパンでも飲みたい気分」
男がアイスボックスを差し出した。なかからワインボトルとグラスを女が受け取り、代わりに有線イヤホンとポータブルモニターをアイスボックスのなかに入れる。すぐにアイスボックスから煙が上がった。
ほとんど同時に、すべての座席のウィンドウシェードが上がりはじめた。機内が朝日で満ちていく。
「日の出は嫌い。ブラジリアを過ぎたら起こして」
女がアイマスクをつけ、自分の席のウィンドウシェードを上げると、男は白い歯を見せ、カーテンで仕切られた通路の後方へと去って行った。