胡桃堂喫茶店

特集・卯月篇[令和七年]

お水が飲みたい

(な

「お水が飲みたい」
寝たきりの伯母が言う。

伯母は母の姉で今年92歳。
この20年来、ずっとひとり暮らしをしてきたが
昨年11月、夜中にトイレに起きて転倒。

3メートル先の電話にたどり着くことも叶わず
朝、ヘルパーさんに発見され、救急車で運ばれた。

その間、半日から2日半。
伯母の記憶が曖昧で
何時間(何十時間?)おなじ姿勢でいたのか分からないけれど
脚を骨折したこともあり
寝たきりになってしまった。

それまで好きなときに好きなもの食べてきた
食いしん坊の伯母が
この半年近く、何も口にしていない。

「恥ずかしいけど、のしいかが食べたい」
と言われ
せめて味だけでも、と思うけれど
それができないのは本当に辛い。

特に辛いのは「お水が飲みたい」だ。
口腔ケア用のスポンジブラシに水を含ませて
飲ませてあげるのだけど
お医者さんから回数を制限されている。

「本当はお茶が飲みたい」
と言われても、お水しか許されていない。

別の話題に変えて
うまく気を逸らせたとしても
すぐに水が飲みたくなる。

肺炎を繰り返すようになり
朦朧とした意識の中
「お水が飲みたい」と言われると
もう好きなものを、こっそりあげてもよいのではないかと
何度も何度も葛藤する。

そんなとき思い出すのは
父方の祖母のことだ。

大震災や戦争など、激動の時代をくぐり抜け
たくましく生きてきた祖母だったが
93歳のある日
突然入院することになった。

2日目までは、いつも通りのやり取りができ
自力でトイレに行っていたが
3日目にみるみる悪化し
眠ったままになってしまった。

6日目の夜、ふと目を覚まし
「甘酸っぱいものが飲みたい」と言った。
病院の許可は降りなかった。

看護師さんがスポンジでお水をあげてくださったが
祖母はがっかりした表情を浮かべていた。

翌日祖母は亡くなった。

「あと少ししか生きられないなら
欲しいものをあげたってよかったのに」

20年近く経った今でも、そんな気持ちが拭えない。

 

幸い、伯母は徐々に回復に向かっている。
寝たきりには変わらないが
「コップでガブガブ水が飲みたい」と言ったり
大好きなジェラール・フィリップの写真集を見せてもらい
目をキラキラさせるまでに良くなった。

いつか自分の口から水が飲めるようになる日を
家族みんなで夢見ている。

 

余談になるが
母たちの実家には、Sちゃんというお手伝いさんがいた。
家族中の信頼も厚く、60年近く勤めてくれていた。

祖父が亡くなり
Sちゃんが引退した後も
ひとり暮らしの祖母の様子を
ときどき見に行ってくれていた。

生まれつき目が極端に悪いかわりに
第六感のとても鋭い人でもあった。

ある夜、Sちゃんの夢枕に
亡くなった祖父が現れた。

「お水が飲みたい。のどが渇いたんだ。」と
切なそうに言う。

翌朝、慌てて祖母の家を訪れると
仏壇の中は花が干からび
湯呑みはひっくり返り、からからになっていたという。

後から分かったことだが
祖母は娘のところへ出かけ、長期不在にしていたのだ。

きちんと掃除をし、お水を備えてからは
現れなくなったそうだが

あの世にいってものどが渇くのなら
この世で好きなものを好きなだけ
やっぱり飲ませてあげた方がいいのかな、と
思う悩む今日この頃である。

(な

猫と暮らして数十年。
いつか猫に好かれる人になりたいと日々精進中。