祖父と早朝の散歩に行き、濃い霧がたっていると決まって呟く口ぐせがあった。
「朝霧は晴れ」
祖父は、いつもそう言って私の頭に手を置いて微笑んだ。
その日その日が、結局晴れたかどうかはまったく覚えていない。ただ、さっと霧が晴れ、瞬く間に快晴になる色彩の美しさは鮮明に心に刻まれている。
ところで、気象用語としての霧と靄の違いは視程距離にあるらしい。たしか、霧の視程距離は1km未満、靄は1km以上10km未満。
ずいぶん大人になってから、気象に詳しい友人がそう教えてくれたことがあった。
高原の朝の私たちを湿度高く包んでいたのは、まぎれもなく霧だった。少なくとも幼い私の目には、1km先どころか、祖父と足元の山野草しか見えていなかったのだから。
あとあとこの言葉が、観天望気という天気を予測することわざであることを知る。
祖父は単に観天望気で呟いていただけかもしれない。
しかし、その後の人生で何かうまくいかないとき、視界不良のとき、この言葉と一連の情景は私を何度も助けてくれた。
見通しが悪いこと自体を楽しんだり、少し肩の力を抜いて晴れを待ってみたり。
祖父は45歳になった私の頭にも手を置いて微笑みかけてくれる。
「おじいちゃん、どんな思いで呟いてたの?」
当時の祖父の年齢に近づくにつれて、ふと聞いてみたくなるときがある。