胡桃堂喫茶店

特集・卯月篇[令和七年]

流す

とりがすきー川越

「、、そうだったかしら。」
ぼんやりした声で、母は独りごちた。

信号が青になり、八瀬大橋をのろのろ渡る。川の両岸は桜・菜の花・諸葛菜に若葉の芽吹き。目に鮮やかな里の春。加えてけぶる甘露の雨。

「、、あら!きれいねぇ。」
左を向き、不意にはしゃぐ老女。

ああ、、。知れず嘆息。
細く長く、諦めを吐くように。

問いは既に、流れ去った。

✳︎

その夏は、何故か母が私に泳ぎを教えようとした。父の郷里に近い、瀬波海岸。
まずは浮かぶところからと、大人の腰ほどの深さに連れて行かれる。
問答無用。
母にがっしりしがみついて、抵抗する。いやだいやだぜったいいやっ!!

業を煮やした母は私を引き剥がすと、えいっとそのまま海にほおった。

衝撃。大量の泡。
ゆがんだみなもにひろがるひかり。
息を忘れた。
仰向けで浮き上がる私を掴む腕。

「、、ほら、出来たじゃない?」

真夏の太陽を背に、母とおぼしき影が言う。
ひんやりとしたものが、胸に落ちる。

✳︎

「海もいいわね。」

車に乗るとすぐ、朝見た情報番組の話になった。いわゆる終活である。

散骨の為のクルーザーが、新潟港からでているらしい。樹木葬もいいけど枯れたら嫌だわ、母は続ける。
「あなたたちに迷惑かけたくないから。」
お墓はもう要らない、お父さんのとこで眠りたくもないし。

「でも私、泳げないのよね。」
ま、死んだら関係ないけど。
助手席で、無邪気に笑う。

、、ふと、訊いてみたくなった。

「小さい頃、泳げない私を海に放ったよね。なんで?」

え?と気色ばむ。

「そんなこと、私、したかしら?」

うん。
勢い、ワイパーをHIにする。霧雨を容赦なく薙ぎ払う。
隣から困惑が漏れる。

 

「、、そうだったかしら。」

ぼんやりした声で、母は独りごちた。

✳︎

橋を渡りきり、加速したままハンドルを切る。母の体が、少しよれる。

...何故ト問ウテモ詮無イ事ヨ。

嘆息。
姿勢を正し、前景を見据える。

、、いずれ、私は彼女を流しにいくんだろう。
多分。きっと。
陽の沈みゆく、日本海へ。

そうだ。
その時は、ええいっ!!と、思い切りよく放ってやろう。
遠くとおく、万感込めて。

知らずくすりと、笑みが出る。

雨はやさしく降り止まぬ。
此岸の春は、まだ続く。

とりがすきー川越

都内で生まれ、3歳から川越。
ほぼほぼ川越人。
でも愛しているのは、ぞうきりん。