「おいしいのになぁ。」
残念そうに、父は呟く。
✳︎
総合病院は、いつも混んでいた。
反して一階奥の長椅子には、私達2人だけ。
カチャ、と目の前のドアが開く。ニット帽を被った若い男性と、家族らしき人が、ゆっくり現れる。
お大事に、見送った看護"婦"がこちらを見る。
「Iさん、どうぞ。」
まもなく50になる父。中折れ帽をとると、丸刈りにポヤポヤの毛。後頭部には、経線のごとく縦一文字の手術痕。
『脳外科・完全予約制』
プレートを横目に、そっと父に続く。
✳︎
小学校に入ったばかりの頃。
父に連れられ、国道沿いのガソリンスタンドに入る。
給油がてらの社交場、すっとカウンター席に座る父。丸椅子によじ登る娘。
「おじょうちゃん、どうぞ。」店の女性が、グラスを置く。
かすかに泡立つ乳白色の飲み物、トリコロールカラーのストローを添えて。
父は珈琲を片手に、常連客と談笑している。
ひとくち。あ、おいしい。
ずずずーーっと、勢い半分。チラリ。
父を横目に、足をプラプラさせながら飲み干す。
初めてのミルクセーキ。
異変は帰宅後だった。
身体中にクレーターよろしく、ボコボコと大きな発疹。
強烈な痒み、そして発熱。アレルギー症状である。
前回はお好み焼きに卵2個乗せ、で発症した。
「外で、何か食べたり飲んだりした?」母は苦い顔。
父は黙っている。真っ赤な顔をアイスノンに
✳︎
病院帰りのタクシーが、赤信号でとまる。車内から、父が指差す。
「ほら、あそこのラーメン屋。」
チラリ。こちらを見る。
「お昼に、食べない?」
食欲が萎えて久しい19歳、横に首振り。
「おいしいのになぁ。」
残念そうに、父は呟く。
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それが、最後だった。
親子で並ぶ、幻の一杯。
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掲載名 とりがすきー川越