胡桃堂喫茶店

特集・霜月篇[令和七年]共に暮らす

共に暮らす

魂という名の野生動物

「え? 馬?」

「そうよ、あそこにいるのが夏禰なつね。筋肉質で俊敏なクォーターホース、もうすぐ10歳になる」

 女が指さすほうには、小さな円馬場で、身体の側面をこちらに向け、干し草をはむ栗色の毛をした馬がいた。

「不思議。この距離で、あそこにいるなんて」

 女がきびすを返し、掃き出し窓を開け、ログハウスのなかに入っていった。すぐにタオルを持って戻ってくる。

「麦茶を浴びせたりして、ごめんなさい」

 そう言ってタオルを差し出した女の表情からは、先ほどの険しさが消えていた。

 態度の変わりっぷりに男は拍子抜けする。

「なんだ急に」

「来て」

 女は掃き出し窓を閉めると、男を追い越して、ウッドデッキの縁から表に降りた。男のほうを振り返ると、ジーンズの後ろポケットに両手を突っ込む。

「別に首に縄をつけて連れまわすってわけじゃないわ。ただ、確かめたいだけよ」

 男は目を細め、口の端を少しだけ上げた。

「言うね、お嬢さん」

「そんな歳じゃないわ。いいから、来て」

 促され、男はウッドデッキから降り、女の後について馬に近づいた。

「その代わり、ゆっくりと歩いて」

 男が歩くスピードを緩める。

 先を行く女との距離が開いた。

「なんだいこりゃ、おれは何やってんだ」

「止まって」

 男と馬との距離、約5メートル。

「やっぱり、怯える様子がないわ」

 女は円馬場までくると、柵に両腕を乗せ、その上に自分の顎を乗せた。馬を見つめている。

「わけわからん、説明しろ」

 立ち止まった男は、ジーンズの前ポケットに両手を突っ込んでいる。

「あなた、悪ぶってるわね」

 女が、口の端を片方だけ、あげた。

「はぁ?」

 男はまぶたを開き、口を大きく開ける。

「別に悪ぶってねえさ。かといって悪者ってわけでもねえし——」

「——かといって、〝いい者〟でもない。そう言いたいんでしょ」

 女が男を振り返る。

「なんなんだぁ、この形勢が逆転した感じは。気に入らねえぞ」

 男は腕を組んだ。

「おれはな、暴力も好きじゃねえ」

 訊いてもいないことを男が告白する。

 女が馬を振り返り、柵をくぐって馬に近づく。

「そうみたいね」

 馬は依然として草をはむ。その身体の側面に女は顔をうずめ、右の手のひらで馬の背中から腹へ向かって、ゆっくりと撫で降ろした。

夏禰なつねには、わかるんだわ」

 グッガール、グッガール。女は馬の臀部を撫でる。馬が首を上げ、女のほうに顔を近づけた。女は自分の身体を起こし、馬の首を優しく抱きしめる。グッガール、グッガール。女は何度もそう言って馬を優しく撫でた。首に回していた腕を離すと、女が男へ振り返る。

「この馬とは共に暮らして5年、私が触れるまでには2か月かかったの」

「触れねーで2か月間、どうやって世話したんだ」

「娘よ。娘が私に代わって世話をしたの。彼女だけが唯一、夏禰なつねに近寄ることができたから。ねえ、来て」

 腕組みをしたままの男が、貧乏ゆすりをする。

「嫌だね」

「怖いのね」

「ああ、怖い。おれには2か月だって一生に思える」

 男はそっぽを向いた。腕時計の時間を見る。

「いけねっ、おい! バスの時間、わかるか」

「駅に向かうやつなら、午後は1本だけよ」

「本数は聞いてねえ、出発時刻だ! あそこのバス停からでるやつ」

 男は身体を女へ向けたまま、左腕で後ろのほうを指さした。

「そっちのバス停は土日しか停まらないわ。反対側の、〝丘陵平〟から駅へ向かうのが15時36分発」

「3分前じゃねーか。今日は帰る、たぶんまた来る」

「いつでも来て、あなたなら歓迎するわ」

 男は眉間に深いしわを作って、口を開け、顎を突き出した。

「はぁ? わけわからん」

 振り返ってウッドデッキに走り、バックパックを掴んで牧場の坂を駆け上がる。舗装された道路に出ると、バックパックを背負って右へ曲がった。

「反対!」

 女の声が、太くて背が高い広葉樹の間を縫って、道路に届くと、男は走りながらUターンした。バックパックのショルダーベルトやウェストベルトをきつく締め、両腕を振って走った。その様が、広葉樹の間を右から左へ見え隠れした。

 「人間というだけじゃなく、男でもあるのに。不思議」

 グッガール、グッガール。馬に声をかけると、女はかがみ、円馬場の柵の外に出る。外から柵を開け、馬の頭に引き綱をかけた。それを引き、馬と一緒に牧場の坂を上ると、道路に使い古された革張りの分厚い手帳が1冊、落ちていた。

魂という名の野生動物

国が変わり、時代が移っても、なぜか同じ声がする。声は水を注ぐ仕草になり、花を活ける手になり、甘いものを分け合ったり奪い合ったりする。相手と初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っているような瞬間がある。街の喫茶店、空港、異国の大聖堂、港町の酒場、上空の機内、下町の屋敷、高台の牧場、都会の蕎麦屋、等々。それぞれの声は交わらないまま、しかし響き合い、やがて別の場所を立ち上げます。そこにいるのは、似た選択で同じような後悔を抱き、迷い、胸を熱くする、名も立場も違う人々です。その記憶をここで静かに追いかけます。

 

これは、時間を超えて繰り返される、いくつかのいのちの物語です。


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