「え? 馬?」
「そうよ、あそこにいるのが
女が指さすほうには、小さな円馬場で、身体の側面をこちらに向け、干し草をはむ栗色の毛をした馬がいた。
「不思議。この距離で、あそこにいるなんて」
女が
「麦茶を浴びせたりして、ごめんなさい」
そう言ってタオルを差し出した女の表情からは、先ほどの険しさが消えていた。
態度の変わりっぷりに男は拍子抜けする。
「なんだ急に」
「来て」
女は掃き出し窓を閉めると、男を追い越して、ウッドデッキの縁から表に降りた。男のほうを振り返ると、ジーンズの後ろポケットに両手を突っ込む。
「別に首に縄をつけて連れまわすってわけじゃないわ。ただ、確かめたいだけよ」
男は目を細め、口の端を少しだけ上げた。
「言うね、お嬢さん」
「そんな歳じゃないわ。いいから、来て」
促され、男はウッドデッキから降り、女の後について馬に近づいた。
「その代わり、ゆっくりと歩いて」
男が歩くスピードを緩める。
先を行く女との距離が開いた。
「なんだいこりゃ、おれは何やってんだ」
「止まって」
男と馬との距離、約5メートル。
「やっぱり、怯える様子がないわ」
女は円馬場までくると、柵に両腕を乗せ、その上に自分の顎を乗せた。馬を見つめている。
「わけわからん、説明しろ」
立ち止まった男は、ジーンズの前ポケットに両手を突っ込んでいる。
「あなた、悪ぶってるわね」
女が、口の端を片方だけ、あげた。
「はぁ?」
男はまぶたを開き、口を大きく開ける。
「別に悪ぶってねえさ。かといって悪者ってわけでもねえし——」
「——かといって、〝いい者〟でもない。そう言いたいんでしょ」
女が男を振り返る。
「なんなんだぁ、この形勢が逆転した感じは。気に入らねえぞ」
男は腕を組んだ。
「おれはな、暴力も好きじゃねえ」
訊いてもいないことを男が告白する。
女が馬を振り返り、柵をくぐって馬に近づく。
「そうみたいね」
馬は依然として草をはむ。その身体の側面に女は顔をうずめ、右の手のひらで馬の背中から腹へ向かって、ゆっくりと撫で降ろした。
「
グッガール、グッガール。女は馬の臀部を撫でる。馬が首を上げ、女のほうに顔を近づけた。女は自分の身体を起こし、馬の首を優しく抱きしめる。グッガール、グッガール。女は何度もそう言って馬を優しく撫でた。首に回していた腕を離すと、女が男へ振り返る。
「この馬とは共に暮らして5年、私が触れるまでには2か月かかったの」
「触れねーで2か月間、どうやって世話したんだ」
「娘よ。娘が私に代わって世話をしたの。彼女だけが唯一、
腕組みをしたままの男が、貧乏ゆすりをする。
「嫌だね」
「怖いのね」
「ああ、怖い。おれには2か月だって一生に思える」
男はそっぽを向いた。腕時計の時間を見る。
「いけねっ、おい! バスの時間、わかるか」
「駅に向かうやつなら、午後は1本だけよ」
「本数は聞いてねえ、出発時刻だ! あそこのバス停からでるやつ」
男は身体を女へ向けたまま、左腕で後ろのほうを指さした。
「そっちのバス停は土日しか停まらないわ。反対側の、〝丘陵平〟から駅へ向かうのが15時36分発」
「3分前じゃねーか。今日は帰る、たぶんまた来る」
「いつでも来て、あなたなら歓迎するわ」
男は眉間に深いしわを作って、口を開け、顎を突き出した。
「はぁ? わけわからん」
振り返ってウッドデッキに走り、バックパックを掴んで牧場の坂を駆け上がる。舗装された道路に出ると、バックパックを背負って右へ曲がった。
「反対!」
女の声が、太くて背が高い広葉樹の間を縫って、道路に届くと、男は走りながらUターンした。バックパックのショルダーベルトやウェストベルトをきつく締め、両腕を振って走った。その様が、広葉樹の間を右から左へ見え隠れした。
「人間というだけじゃなく、男でもあるのに。不思議」
グッガール、グッガール。馬に声をかけると、女はかがみ、円馬場の柵の外に出る。外から柵を開け、馬の頭に引き綱をかけた。それを引き、馬と一緒に牧場の坂を上ると、道路に使い古された革張りの分厚い手帳が1冊、落ちていた。