胡桃堂喫茶店

特集・皐月篇[令和七年]心がデカめに動いたとき

コーヒーの時間

みうらゆみ

「感情がなくなりますように」と、ずっと願ってきた

身体のなかに満ちる海は、暗く、深く、常に荒く波打っていて、感情の動きと比例しながら、揺れは騒がしく暴れ狂う

うれしいことでも、かなしいことでも、感情の揺れは自分にとって大敵
少しでも感情が動きそうなできごとは避け、靴を脱ぎ、ぼろぼろの木の吊り橋を慎重に渡るような日々

いつだってこわくて、どうしようもなくて、泣きながら夢見るのは、必要なものは、春の晴れた日の凪いだみなもだった

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無数の感情が飛び交う頭のなかを静めてくれる唯一の時間は、仕事中、ドリンクカウンターに立ち、コーヒーを淹れているとき

ひっそりと一定の呼吸を保ち、コーヒーの向こう側にいるたったひとりのことだけを考える、祈りを込める

そっと豆に湯を垂らしていく砂時計のような時間だけは、騒がしい頭のなかをからっぽにしてくれる

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ドリンクカウンターに立つようになりしばらくした頃、お客さまでもあり、むかしから仲良くしていただいている大好きなまちのおねえさんに、わたしの淹れたコーヒーを褒めていただけるようになった

「あなたの淹れたコーヒーは、どんなときも絶対に味がぶれない。苦味もあるのにやさしくて、すっきりとしている。どんどん腕が上がっているね」

うれしかった、わたしの祈りの時間がちゃんとコーヒーに表れているのだ、生きていてよかった

初めておねえさんに褒めてもらえた日の夜、わたしは感情の海をぐわんぐわんと揺らしながら泣いた

自分のこんがらがったほどけない感情たち、思考、全てがコーヒーと一緒にフィルターに濾過されて、澄み切った液体になっていることが、本当に本当にうれしかった

絶対にこの人を裏切りたくない、お店を好きでいてくださるお客さまたちに、どんなときもおいしいコーヒーを手渡そうと自分に誓った

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それからもおねえさんは、わたしの淹れたコーヒーを飲む度に、とっておきの賞賛の言葉と笑顔をくれる

そのたしかな温度は蝋燭のあかりのように、あたたかな揺れを灯し、真っ黒な海を壊れかけのボートでゆくわたしの心を強く照らしてくれる

わたしがこのお店に立つ意味を贈ってくれる
生きてゆく希望を贈ってくれる

みうらゆみ

胡桃堂喫茶店スタッフ。クリームソーダと文学と夜に吹くしゃぼん玉が好き。毎日大量のぬいぐるみをかばんに詰め出勤している。