胡桃堂喫茶店

特集・皐月篇[令和七年]心がデカめに動いたとき

強烈なまでの生命の実感

寅次郎

私の中で「心がデカめに動いたとき」とは、まさに「強烈なまでに生命の実感を覚えたとき」と言えるだろう。
日々暮らす中で、迷いや不安・葛藤など抱くことは誰しもあると思うが、私はそのような負の感情に押し潰されそうになり、生気を失いかけた状態になると、決まって強烈な生命のエネルギー(またはそれを伝える表現物)に出会い、何度も持ち直してきた。いや、助けられてきたというべきか。

先日の森山直太朗氏のコンサートにおいても同様だった。(演奏はなく)本人の生歌唱のみで披露された「生きとし生ける物へ」は、生きる喜びや無常さをこれでもかと訴えかけるようで、涙が止まらず嗚咽した。加えて、これはごく個人的な記憶であるが、実は幼少期に初めて無心で聴いたのが同曲であった。難解な歌詞の中に、他の音楽には無いような生命の力強さを不思議と感じたのが、夢中になるきっかけだった。小学校低学年の私は部屋にこもり、ヘッドフォンをつけ、歌詞を指で辿りながら、それこそ擦り切れるまでCDを聴いた。あの情景がコンサート中に浮かんできたため、己自身が最も生命に満ち溢れた時代に、懐を突き刺された心地さえした。「お前は、何をしているのか」と。

そして、「生きとし生ける物へ」を会場で聴いた際に、生命力の象徴とも言える真っ赤な血を、まるで絵具のようにして、空っぽになってしまった私というキャンバスに塗りたくられる気分であった。いや、例えではなく、確かにそのように見えたのだ。

このような経験をさせたのは、

岡本太郎
アレハンドロ・ホドロフスキー
三島由紀夫
ゴッホ
竹原ピストル
手塚治虫
※敬称略。

と枚挙にいとまがないのだが、
コンサート中の私は、かつて同じ感覚を抱かせた、ある映画を想起した。

大林宣彦監督の「花筐」。
肺癌により余命宣告を受けている大林監督が紡ぎ出したのは、太平洋戦争の影が忍び寄る中、「青春が戦争の消耗品だなんて、まっぴらだ」と抗い、我が「生」を自分の意志で生きようとする若者たちの姿だった。
そして、劇の終盤に主人公(及び大林監督)がカメラの向こうに投げかける言葉が思い起こされる。

「お飛び。お飛び。さあ、お飛び。僕は果たして飛んだのか。飛ばなかったのか。飛ぶとはどういうことか。今の時代を生きる僕たちにとっても。さあ、君は飛べるか。この僕は・・・。」

この言葉が頭をこだまし続ける限り、私は自問し、我が「生」を自分の意志で生きられるのだろう。そして、今も「心はデカめに動き」続けるのだ。歩みを止めてはならない。

強烈なまでの生命の実感

寅次郎

東京在住。趣味は音楽・映画鑑賞・読書・お抹茶を点てること・お茶を淹れること・絵を描くこと。