胡桃堂喫茶店

特集・睦月篇[令和八年]令和七年下半期まとめ

令和七年下半期まとめ

魂という名の野生動物

 ミニスカートの二人組が、スマホを見ながら横断歩道を渡っている。

「先輩、あたしの話を聞いてないでしょ」

 先輩と呼ばれた男が、運ばれてきたざる蕎麦を割り箸で持ち上げた。

「したはんき、じゃなくて、しもはんきです。よくそれで編集者が務まりますよね」

 男は、ざる蕎麦をすすっている。

「3月号の特集、わかってます?」

 めんつゆに浸けた蕎麦を頬張ろうとして、男の動きが一瞬だけ止まった。

「違いは海苔のあるなしです。ざる蕎麦もり蕎麦の違いを徹底検証なんて企画、ウケるわけないでしょ」

 男が手を挙げて店員を呼ぶ。

午年うまどしの射手座は世界を救いません。蟹座でもありません」

 メニューを広げた男は、店員と相談をはじめた。

「巻頭カラーの見開き8ページが差し替えですよ? 何か聞いてませんか。ねえ、先輩てば」

 店員が厨房に戻ると、男はめんつゆの中に蕎麦湯を注ぐ。

「そういうところが牡羊座っぽいよね、じゃないから。あたし山羊座」

 男がテーブルの薬味をめんつゆの中に入れ、それらを割り箸でかきまぜた。

「だいたい、年明けの3月号で去年の出来事を特集するサブカル誌が、どこにあるんですか」

 男は割り箸で、空の竹ざるに挟まった蕎麦の切れ端をつまもうとしている。ペンを握るようにして割り箸を握っているからか、なかなか蕎麦をつまめない。

「飛ばされた、あたしの企画は4月号の特集にスライドされるんですかね。せっかく面白い話が聞けたのに」

 呼び止められた店員に、男が温かいお茶を頼む。

「なんで松宮さん、差し替えの理由を言わないんだろう」

 店員が温かいお茶とお冷を運んでくる。

「台割が決まった翌日ですよ? せめて、あたしにだけは説明してほしい。あんなに褒めておいて理由もなく差し替えだなんて、ひどい。そもそも、特集のテーマごと差し替えるなら、編集会議の段階で落とせばいいじゃないですか。でしょ? そうですよね? 単純に、あたしの企画がダメなら、ほかの人の企画と原稿に差し替えれば手間ないのに。なんで、一度決めた特集のテーマごと、わざわざ差し替えちゃうんだろ。先輩、そこ。口元」

 男がつまようじを置き、人差し指で口の端についた蕎麦をつまむと、店員が温かい蕎麦を運んできた。

「うるさい、男運は確かに悪いけども」

 湯気が上がる器に、男が顔を寄せる。鼻先が汁に触れそうなほど近い。

「おいしそう。それ、鴨南蛮の温かいほう?」

 男はメニューを渡すと、温かいお茶をすすってから、新しい割り箸を二つに割って、ペンを持つように握る。

「なんかあったんじゃないのって、だから、その理由ね。言い訳にすらなってない。あたしは納得できません。裏取りでポーランドの国立図書館まで行ったんだから」

 男は立ち上る湯気を手で鼻にかける。まぶたを閉じて鼻から息を吸う。

「そういう捉えかたは、よくないなぁ。仕事のついで、ですよ。その合間の時間に、ちょっと観光しただけ。おかげで、かなり面白い話が聞けました。あたしも、やっぱ頼もうかな」

 店員が通り過ぎた。

「あ、すいません。追加で味噌田楽を1つ。先輩も食べます?」

 男は顔の横で指を二本立て、店員を見上げた。視線を感じ、男が前を向くと店員は厨房へ向かった。

「それはアメリカの都市ね」

 男が器を持って汁をすする。熱くて、ほとんど飲めない。

「いや、メイン州のほうと間違えます? ポートランドと言えばオレゴンでしょ」

 男が大きな音を立てて蕎麦をすすった。

「詳しいね、じゃないですよ。バラ祭の取材でオレゴン州まで行ったからじゃないですか。ブルガリアに行きたかったのに経費が出なくて。しかも、あたしに下調べを全部、任せましたよね。はぁ? 忘れたとか言わせませんから。週刊アフタヌーンティーに配属された1年目ですよ、こっちに異動してくる前の編集部。航空券と宿の手配も全部あたしにやらせて、ほんと大変でした。あのときに貸した50ドル、まだ返してもらってないんですけど。——てか、あなたみたいな人が、なんで副編なんですか。松宮さんが指名したってのが、いまだに信じられない。あーもう、またムカついてきた。おい、鯨井くじらい。聞いているのか」

 鯨井と呼ばれた男は、運ばれてきた味噌田楽を割り箸でつまむ。

「なんとか言え、へたれ食いしん坊」

 男のズボンから大音量で、アニメ『ピンクパンサー』のBGMが聞こえてきた。店内のスーツ姿が全員、振り返った。男はスマホを取り出すと、電話に出る。すぐに電波が弱いフリをし、電話を切った。味噌田楽を1つ食べようとするが、再び男のズボンからアニメ『ピンクパンサー』のBGMが大音量で鳴る。男はスマホの電源を切った。

「お前のことだ、バツイチ・マンバン。アラフォーのくせに、モテようとして今時な髪型して」

 男が皿の味噌田楽を全部、頬張った。

「あー! あたしのぶん!」

 男は割り箸で鴨肉をつまみ、テーブルの七味唐辛子を振った。キャップが外れ、中身が塊になって鴨南蛮の中に沈む。

「ざまーみろ。そういうことばっかしているから奥さんにも逃げられるんだ」

 ペンを持つようにして割り箸を持った男が、鴨肉をつまんだまま、その手を顔の前で左右に振った。オレンジ色の粉が少し舞う。

「どっちが先に浮気したとか、そういうの聞いてないです。てかやっぱり浮気したんじゃん。いやいや、そうじゃなくてだ。聞きたいのは、あたしの企画はどうなるんだってこと」

 男が店員を呼んで、口をもごもごさせながら、新しい割り箸を頼んだ。視線が宙を漂い、左耳とおでこが、わずかに動く。

「なんか、知ってるね」

 男はネクタイをつかまれた。

「教えろ」

 味噌田楽で頬をいっぱいに膨らませた男が、鴨肉を口のなかに押し込む。割り箸を置くと、両方の手のひらを見せた。見つめられた男は咀嚼を続け、飲み込もうとしている。ときおりネクタイを強く引かれ、男は急かされた。

 そこに、桃が乗ったあんみつが運ばれてきた。

 引っ張られていたネクタイは緩み、代わりに桃が乗ったあんみつが男の前から消える。

「この桃は、岡山県産の『冬桃ふゆももがたり』ですね。この店のあんみつが人気メニューである所以であり、先輩の好物」

 口のなかを味噌田楽と鴨肉でいっぱいにした男の動きが止まる。

「これ以上はぐらかしたら、別居中の奥さんの電話に、浮気相手のフリして出ます」

 男は目を閉じ、両方の手のひらを見せながら、何度も頷いた。

「味噌田楽と天ぷらを追加で注文して、あたしが食べますが、支払いは先輩で問題ないですよね?」

 男は咀嚼しながら、右手と左手のそれぞれで丸を作った。

 店員が呼ばれ、味噌田楽と天ぷらが追加で注文された。

「あ、すいません。やっぱり天ぷらは塩でお願いします」

 店員が去っていくと、男は食べ物を喉に通し、温かいお茶を飲み干した。おしぼりで手と口元を拭き、ズボンからスマホを取り出す。電源をONにして写真を表示させた。それを相手に見せようと腕を伸ばした瞬間、スマホの振動音がした。男のものではない。

「すいません、電話なんで出ますね。あ、非通知か。どうしよ。——出るか、はい」 

 店員が来て、お茶とお冷のお代わりを尋ねた。男がお代わりを頼み、前を向くと、真っすぐに見つめてくる大きな瞳と男の目が合った。

「やばい。ヒウミ・オルガって人から電話かかってきた」

魂という名の野生動物

国が変わり、時代が移っても、なぜか同じ声がする。声は水を注ぐ仕草になり、花を活ける手になり、甘いものを分け合ったり奪い合ったりする。相手と初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っているような瞬間がある。街の喫茶店、空港、異国の大聖堂、港町の酒場、上空の機内、下町の屋敷、高台の牧場、都会の蕎麦屋、等々。それぞれの声は交わらないまま、しかし響き合い、やがて別の場所を立ち上げます。そこにいるのは、似た選択で同じような後悔を抱き、迷い、胸を熱くする、名も立場も違う人々です。その記憶をここで静かに追いかけます。

 

これは、時間を超えて繰り返される、いくつかのいのちの物語です。


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