胡桃堂喫茶店

特集・水無月篇[令和七年]ファンタジー

とりがすきー川越

「、、30年かかってしまったわ。」
帰り道で、妻はつぶやいた。
個展の撤収を手伝ってくれた息子は,後部座席で爆睡している。サザンのニューアルバムが、車内に流れる。

「そう言えば30年前に一度、中野のギャラリーで個展の予約したよね?」
ええ、妻は苦笑い。予定を立てれば描く口実になると思ったのに、結局何にも描けなくて。泣く泣くお断りの電話を入れたのよ。ほんと、馬鹿よね。

夕焼け。マジックアワーの始まり。

信号が青になる。

この話、言ったことなかったっけ?
彼女は横を向く。
僕は左手を伸ばして、BGMのボリュームを少し落とす。

助手席からポツポツと、彼女は語り出した。

✳︎

 

もうじき一歳になる長男を連れて元職場に遊びに行ったのは、梅雨明け間近の頃。帰路、こじんまりとした一軒家のギャラリーがあって、ふらりと立ち寄った。

趣のある木造建築の一室に、小さな版画が幾つか飾られていた。身の回りの物がモチーフになっていて、色はないのに温かみのある作品ばかり。雲間から時折陽が差し込むリビングの静謐せいひつ。まるで私のためだけに用意されたような、そんな錯覚をする空間だった。

久々に満ち足りた時間を過ごしギャラリーを出ると、外は霧雨。軒先で雨宿りをしながらぼんやりしていた。

「、、私も個展、やりたいなぁ。」

雨が止んだ。
え?
一瞬ののち、何もなかったように降り出す。
なんてタイミング。長男は疲れたのか、抱っこ紐の中でぐっすり眠っている。

そうだ、あんなすてきな個展ができたら、、、

ピタリと雨が止む。

、、、?

サーッと、再びの降雨。

もしかして、もしかすると。
少しどきどきしながら背筋を伸ばす。
見渡す限り、人影は無し。

「、、個展を、やります!」
小さく、はっきり声に出してみる。

瞬間、雲間から光がこぼれる。
雨上がり、草木の水滴が反射する。きらきら、きらきら。なんてまばゆい。
呆気に取られていると、いつの間にか起きた息子が、笑いながら天を指す。
その先には、虹。

ああ。何かが込み上げ、瞳が潤む。
顔をうずめる。長男がむずがる。

やろう、個展を。必ず。

その時、「約束」が刻まれた。

✳︎

 

で。、、やろうと思ったものの、ほどなく気がついたのよ。
私には,伝えたいものもことも何もないって。
辛いことや苦々しいことは山のようにあったけど、そんなものまんまは出したくなかった。
私の宝は私の大事なものは、そんなんじゃない、って。

今ならわかるわ、いやってほど。私には時間とあゆみが必要だった。
ゆっくりゆっくり、気が遠くなるほど。
泣いて笑って傷つき傷つけ、学び続け動きを止めず、少しずつ少しずつ日をつないで。
そしていつかすっかり忘れてしまったその時、ひとつの果実が熟れ落ちた。

それが、今。ってわけ。

✳︎

コロナ禍の時、原因不明の症状で苦しみながら死を強く感じたの。同時に、腹の底からうねるような咆哮をきいてしまった。
シネナイ、コノママシヌノハゼッタイニイヤダッ、て。

その頃からなんとなく、個展やりたかったんだよな、と思い出してはいたけれど、、この願いを終えたら私どうなる?とも思って、ね。生きるよすががなくなる怖さもあったり。でもやらずに後悔し続ける未来も嫌で。ぐだぐだしていたのよ。ずーっと。

結局、背を押してくれたのはこの世を去ったお義母かあさんだった。
ひとは必ず死ぬ。時は満ちた。
今,やらねばと。

✳︎

「、、これで一つ大きな約束を果たせたわ。」
妻はため息をついた。ほんと、この先何をしようかな。なんか空っぽな気分ですよ。

「、、、それはそうと。」
ゴソゴソと箱を開ける。
「今、一番欲しているのは、、この頂いたどら焼きを食べることなんですが?」お腹空いてしまって、、お行儀悪いんですけど。
僕は笑いながら、どーぞどーぞと言う。
あー美味しいっ!Sさんありがとおっ!これで熱々の緑茶があったらサイコーなんだけどっ!!

この人は本当に幸せそうに、食べたり飲んだりする。
思い出したように、ステレオの音量を上げた。

 

サザンが愛を、歌っている。

とりがすきー川越

都内で生まれ、3歳から川越。
ほぼほぼ川越人。
でも愛しているのは、ぞうきりん。


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