はじめは何かの影が床に落ちているのかと思った。部屋にまで差し込む真夏の強い日差しのせいで、あらゆるものが濃い部分と白い部分とにくっきりと分かれていた。床に丸く形づくられた濃い色の何かは、しかし影ではないことはすぐにわかった。なぜならその丸は、同じ形を保っていないと感じたからだ。氷がゆっくりと溶けるような、あるいは虫が地面を這うような、そんなふうにはっきりとした動きはまったく無いのに、ずっと同じ形をしていないということだけは確信できた。生き物のようではないけど、静止はしていない。動きを感じる。
強い光が作るコントラストに徐々に目が慣れてくると、その丸い形は青い色だということが分かった。そしてその表面が、時折ほんのかすかに、本当にかすかに波打つのが見えてきた。動きの起点を探そうとさらに目を凝らすと、丸い形の中央付近に比較的大きく波打つ箇所があった。その部分に波が起こると、そこを中心にして小さな波が広がっていく。
どのくらいの時間それを見ていたのか分からないが、ふと気づくと、丸の形がはじめよりも大きくなっていた。フローリングの目地にかかっていなかったはずの青い丸の縁が、今は目地に届いている。そしてさらに時間が経つと、青い色は、その目地に沿って滑りはじめた。
液体だ。青い色の何かは、液体だ。
一点を凝視していたせいで首と肩の筋肉がこわばってしまった。ほぐそうと首を回してギョッとした。床のものの倍ほどの大きさの青い丸が、真っ白い天井にくっきりと染みついていたのだ。大きな青い丸の中心から、何秒かに一度、青い雫がしたたり落ちていた。床の青は、天井の青から落ちた雫が作ったものだった。
これはいったい何だろう。この部屋はマンションの5階だ。6階の住人が青い液体を床にこぼしたのだろうか。しかし、こんな色の大量の液体とはいったいどんなものか。塗料にしては粘度が低すぎる。人工着色料たっぷりのトロピカルジュースみたいだ。液体の正体がなんであれ、そもそも大量の青い液体を床にこぼすような状況が想像できない。
窓の外ではさらに一層強い日差しが、様々な形の黒いものを生み出していた。日の当たる部分はまるで真っ白で、影だけがべっとりとした平面的な形を作る。木々や家並み、道を走る車やバス、公園の遊具、そして歩道を走る子供たちまでが、自分の知っている形とは違うものだった。見たことのない黒い形たちが幾重にも重なってさらに得体の知れない形を作った。真っ白い世界の中に黒いところだけが、まるで足が何百本もある巨大な甲殻類のように揺れていた。
麻痺したようにぼんやりとした頭をなんとか集中させて、とにかく真上の部屋で何があったのか確認しに行こうと思った。床の掃除は後回しだ。いま掃除をしても、またすぐにしたたり落ちてくる青が床を染めてしまうだろう。納戸から古新聞を大量に持ってきて、とりあえず床の青の上にくしゃくしゃとかぶせた。床の青は少しずつ新聞紙に吸い取られた。天井からの青い雫が新聞紙に落ちるたびに秒針が進むような音を立てた。
部屋を出て階段までの通路を走った。冷房が効いた室内から出たばかりの外気は、むせるような熱さとまるで固体のような質量で、走っているつもりなのになかなか前に進まないような錯覚をしてしまう。通路の左手にはそれぞれの部屋のドアが並んでいて、右手は大人の脇くらいの高さの手すり壁になっている。他に高い建物があまりないので、5階からでもずいぶん遠くまで見晴らせる。真夏の空気が体にまとわりつくように押し寄せてくるが、マンションにいつもと変わった様子はない。通路の端に設けられている階段は、外が見えるような手すり壁も窓もなく三方が壁に囲まれているので、通路から踊り場に足を踏み入れると一瞬目の前が真っ暗になった。
階段を駆け上がって6階の通路に出る。真上の部屋の玄関は少し開いていた。どうやら部屋に風を通すために、扉止めを使っているようだ。住人は中にいるらしい。扉の前に立って呼び鈴を押す。少し待ったが返事がない。もう一度押してみたが同じだったので、扉のすき間から声をかけてみた。「すみません!下の者ですが!」返事はない。少しはばかられたが、とにかく青のことをなんとかしなければならないので、扉を開けて玄関に入った。「すみません!下の者ですが!青い液体が天井から垂れてるんですが、こちらでなにかこぼしたりしましたか?!」玄関は開いていたが、部屋に人がいる気配はなかった。短い時間ならと開けっぱなしにして買い物にでも出ているのだろうか。ほんの少し走っただけなのに、額には小さな汗の粒ができていた。
俺は靴を脱ぐと思い切って部屋に入ってみた。忍び込んで悪いことをしようと思っているわけではないのに足音を立てないようにしているのに気がついて、なぜか指をパチンと鳴らした。それにしてもこの部屋は空調が効いていなくて暑い。外のように空気の動きがない分、なんだかまるで空気の層が床から積み重なっているようだった。それが足にからまってうまく歩けない。金縛りとはこんな感じなのだろうか。金縛りを振りほどくように力を込めて体を動かしていると、額の汗の粒がいくつかまとまり大きくなって、頬から顎に垂れてきた。そして顎からぽとりと床に落ちた。この家の床はフローリングではなく毛足の短い絨毯が敷きつめられていた。顎から落ちた俺の汗は、空気の層を突き破って絨毯に小さな印を残し吸い込まれた。
短い廊下を進んでまず入るのはダイニングルームだ。床は絨毯だが間取りは俺の部屋と同じだ。俺は迷わずダイニングルームを突っ切ると、青い液体が垂れている真上の部屋のドアのノブに手をかけた。鍵がかかっていた。心のどこかで無駄だと分かっていながらも、扉をノックした。「勝手に上がってしまってすみません!下に住んでいる者なんですが、天井から青い液体が垂れてまして・・」何度かノブをガチャガチャと回してノックをしてみたが、中からは何も返ってこなかった。
俺は仕方なく自分の部屋に戻ろうとしたが、ダイニングルームからベランダに出れば、外からこの部屋に入ることができるのを思い出した。再びダイニングを通ってベランダに出るための窓を開けた。地上6階の空気は部屋の中よりもずいぶん爽やかだった。少しだけ息をつくと、ベランダに出て部屋の窓の方に回り込んだ。窓の内側はカーテンが閉じてあって、窓には当然のように鍵がかかっていた。やはりここにいても仕方がないと諦めようとしたが、よく見ると閉じられたカーテンにほんの少し、5mmくらいのすき間があった。痛いほどの日差しを背中に受けながら、俺はカーテンのすき間から部屋の中を覗き込んだ。
扉もカーテンも閉じられた部屋の中は、外が明るすぎることもあってよく見えなかった。俺は両手を双眼鏡を持つような形にしてこめかみの辺りに付けると、外の光がなるべく入らないようにガラス窓にくっつけた。瞳孔が開いてわずかな光の差を感じられるようになると、だんだんと部屋の中が見えてきた。
俺は自分の目がおかしくなったのかと思った。暗い部屋の真ん中に、直径3mはあるかと思われるぶっとい柱が立っていたのだ。柱といってもカンナできれいに整えられた四角いものではなく、鍾乳石のようなものだった。床から天井まで貫かれたように立っているその柱を見ていると、まるで柱がまず先にあって、そこに後から部屋を作ったようにすら感じられた。そのくらい強い存在感を放っていたのだ。柱は青い色をしていた。
嫌な予感がしてその場を離れると、俺は靴も履かずに急いで自分の部屋に戻った。青が垂れていた部屋の扉を開けると、そこにはもうすでに、太さ10cmくらいの青い柱が、天井と床をつないでいた。
おわり