胡桃堂喫茶店

特集・如月篇[令和七年]喫茶店

昭和の喫茶店風景

齋藤るる

家に「お父ちゃんがいない」とき、近所の喫茶店に行けば、父は必ずそこに居た。
父と同じく自営業の男性が数人、昼間でも、仕事の息抜きにその店に来ていた。
1970年前後、私が小学生の頃の喫茶店。ソファにはパリッと糊が効き、ヒダヒダがきちっとアイロン掛けされた白い木綿のソファカバー。各卓上には星座占い。
スキップしながら店に入った私を見つけて、父が「おい、何でも頼め」と言う。
その言葉に、お客さんたちが「メロンソーダーがいいぞ!」と言う。「メロンソーダーがこの店で一番値段が高いからな」と言って、お客さんたちと父が一斉に笑う。
私は目をキラキラさせて、メロンソーダを頼むか遠慮してアイスクリームにするか考える。
ある日、あるお客さん(Nさん)が私に500円玉をくれた。店内はその気前の良さに「オーーー!」と盛り上がった。それ以来、私にとってNさんは「いい人」「大事な人」として心に残った。
父はずっとずっと、毎日毎日、その喫茶店に通い続けた。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病気で歩きにくくなってからも、電動カートを運転して出かけ、時々、転んだ。
病気が進行し、父が亡くなった時、駆けつけてくれた喫茶店の娘さんは父の姿を見て号泣した。

もう一つの思い出の喫茶店は、70年代の終わり、私が娘ざかりの頃。近所の八百屋さんが閉じて、八百屋さんの息子さんがそこに喫茶店を開いた。25歳の若マスター。お客さんはマスターの同級生たち。
インベーダーゲーム機がテーブルとしても活躍した。壁にはマスターの趣味のサーフボード。
みんなでアウトドアクラブを作って遊んだ。名誉会長はマスターのお母さん、丸顔でカラカラカラと高く笑う。
川原では「フィーリングカップル5対5」という、当時テレビで流行ったカップル誕生を目的とした対話をし、車では先頭車と後続車で「トランシーバー」でやりとりした。揃いのパーカーを製作して着たりもした。
ある時、私が浮かない顔をして見えたのか、クラブの仲間の男性が声をかけてきた。
「るるさんさあ、悩みがあったら相談に乗るよ。金(カネ)のこと以外だったら力になるからさ」。

昭和の頃の、喫茶店の風景。

齋藤るる

西国分寺在住。好きなメニューはクルミドティーと赤米定食。優しい夫と、爬虫類好きな長女、アーティストを目指す次女との四人暮らし。困ったことを解決するのが好き。モットーは「愉快にたのしく努力する」。