そのお店がなくなるとなったとき、そのことを心から惜しんでくれるお客さんがいてくれたならうれしい。
そんな思いで17年、お店をやってきました。
「ああ、あのお店、なくなっちゃったんだね。」
「おいしかったし、便利だったんだけどね。」
そういうひと言だけでは片付けられないようなお店。
どうしたらそんなお店になれるんだろうかとずっと考えてきました。
それには、お客さんとお店とのあいだに重なりをつくることだと考えて、お店のシフトに入ってもらったり、お店の壁をお客さんのメッセージで埋めてみたり、イベント出店を一緒にやってもらったり、くるみを一緒に割ってもらったり。いろいろと試行錯誤してきました。
でも最近は、実はもっとシンプルなことなんじゃないかと思うようにもなりました。
一緒に、泣いたり笑ったりすること。
一緒に、よろこんだり悲しんだりすること。
「一緒に」というときのこちら側の主語はお店で、別にぼくやスタッフでなくたっていい。
お客さんがお店に来て、お店にいて、いろんな感情を経験すること。一人でだったり、誰かとだったり。
そうした感情、そうした記憶は、誰にも触れられなくとも確かに存在し、喫茶店の床下に、泉としてたたえられていく。
お店がなくなるということは、その泉が失われるということ。
その泉が、こんこんと豊かであればあるほど、それが失われることの喪失感も大きい。
お店がなくなって悲しいっていうのは、そういうことなんじゃないかって思う。
でも。
実は、お店がなくなったとしても、その泉は残るのです。
だからその地に身を置いたとき、かつてそこにあったいのちの関わりは、小さく小さく再生されるのです。
自分が経験したものだけでなく、直接には見知らない、あの人やあの人が経験した感情の流れも、一緒になって。
そういえば、昨晩も、あの子がお店で泣いていた。
その涙の理由はぼくには分からないけれど、彼女が流してくれたその涙の分だけ、今日のお店はまた豊かなのだと思う。