「なんで僕に言うの。自分でやったらいいじゃない」
わかりにくい表情だ。
2人席のテーブルに、椅子を加え、無理やり3人席にした店の
「正直、困ったなあって感じているのが本音のところでもあってね。お店を訪ねてくれる、おひとりおひとりには感謝の思いがあって、その人たちを僕らなりに丁寧に迎えたい気持ちもあるのだけれど、近頃は注文してくれたコーヒーを飲まずに帰ってしまうお客さんが、チラホラ現れるようになって」
カップルや女性グループで喫茶店は賑わっていた。そのどれも明るい表情で満ちている。理由は、客の席に運ばれてくる1輪のバラにあった。
「世間では、おまけつきチョコを買って、チョコを食べずに捨てる子どもが増えていると騒がれているけれども、僕には、大人も同じようなことをしているように思えてね」
ナイバシャを人数分もらえますか。どこの席からも聞こえてくるセリフだ。ケニア産のバラが1輪挿しになって運ばれてくるサービスで、コーヒーを注文した客が希望する場合に限り、無料で提供される。それが話題となって客を集めているのが、この喫茶店だ。なのに店の主は浮かない表情、というよりも感情が読み取れない顔をしていた。それでいて言葉は尖っていて、オレへ向かってくる。この取材は荒れるかもしれない、そう思った。
「土日は2組、3組と、そうしたお客さんが続くこともあって。もちろん、相変わらずコーヒーや食べ物だけでなく、店で過ごす時間を楽しんでくれる顔なじみのかたも来てくれていることには変わりはないのだけれど、お客さんと接する側としての心持ちみたいなものを保つのが、どうにも難しいなと感じるのも事実で。すごく複雑な気持ち、なんだよね」
寒暖差が激しい高地で育ったこのバラは、大輪に育っている。赤、白、黄、オレンジ、ピンクなどの単色は、発色に優れ、まるで蛍光しているようだ。肉厚な花びらは巻きも多く、茎の太さは群を抜く。近年、バラは原産国での生産が増えているらしい。専門家の話では、このままいくと世界的に、カーネーションの生産量をバラが上回るかもしれないそうだ。
「ありがたい話ではあるのだけれど、テレビ局からの取材依頼が続き、お断りさせていただかないと、通常営業が成り立たないほどに、お店は繁盛していて。でも働くメンバー、仲間の顔を見ると浮かないというか。疲れの色が濃くなっているようにも思えてね」
店の主は口髭をなで、Cカーブのラインに沿うように、混じり始めたグレー色の前髪を人差し指で後ろに流した。
向かいに座る明美は、クチをつぐんで下を向いたままだ。特別に時間をもらった、とかって得意げな顔をしやがって。あの顔は、どこ行ったよ。
「休み明けで戻ってくる彼ら彼女らの顔から、その色が淡くなったり薄くなったりする頻度が減っているようにも、僕の目には映るんですよ」
言葉は、ゆっくりで丁寧だけど、よどみがない。
「そのことを危惧しています」
店の主が、水が入ったグラスに手を伸ばす。
「僕も、チカラになりたい気持ちで、お受けしてね。シフトの合間に、エプロン姿のままでなんだけれども、こうして話を聞かせてもらったわけで」
探しながらの、慎重な言葉選びは続く。でも、そこには定型文のような、聞き馴染がある言葉だけが並ぶことはない。体裁を繕うようなコメントもゼロだ。この男は自分の考えや思いを冷静に、ちゃんと伝えてくる。
こういう大人と会ったの、オレ、いつぶりだろう。
「でも、こうして会うなり、席について自己紹介や挨拶もなく、いきなりこれを持ち帰りたいと、写真を撮らせてほしいという申し出には、どうぞどうぞと答えるような心情にはなれなくてね。明美ちゃんには申し訳ない気持ちなのだけれど」
店の主が明美へ視線を向けた。明美は苦笑いを返す。ふたりの視線は合わない。
「見ての通りの店内で、猫の手も借りたいような状況だから、そういうわけなので、今回はお断りさせていただきたい」
「チャンスじゃないすか」
カラン、と、グラスの氷が音を立てた。いける。
「編集長との対談も決まったって聞いてますよ」
「益子さん、芸能人みたいだよね」
テーブルに両手をついた店の主は、立ちながら、片方の手で椅子を引く。その動きに負けないスピードで言葉を投げた。
「ここだけの話ですが編集長は次期・社長とのことで社内でも噂なんですよ」
店の主は着ているエプロンを一度ほどき、つけ直している。腰の後ろに両手を回し、その手は、体をなぞるように前に来る。ヘソの辺りで、ちょうちょ結びをしながら、顔は店内の入口、レジのほうへ向いている。その先には、持ち帰り用の切り花として包まれたナイバシャを大事そうに受け取る客の姿があった。
「最近は、テレビのコメンテーターとしても認知されているものね。彼女、綺麗だし見栄えがするというのもあるとは思うのだけれど」
「益子さんとの対談企画で、この店は全国に知られますよ。流行りのフランチャイズも夢じゃない」
「そうは思わないし、僕が望んでいることとは少し違ってね」
表情は、水面なら凪だ。感情の波は1つも立たず、かすかな波紋すら浮かばない。
「うちの雑誌は特ダネも多いし、業界では抜きん出る存在です。ご存知ですよね? 手を組んでおいて損はないはずです。というか逃す手は、ないと思うんですけど」
「彼女とは以前、同じ職場だったから。そのよしみで対談の話も是非にと思っていたのだけれど。でも、そういうことなら、ちゃんと事情を話すことをしたほうが良さそうだ」
「オレの話、聞いてました?」
「そのままをそっくり返させてもらうよ」
明美に何かを耳打ちしやがった。仕事に戻る気か。
「休憩が終わるから、これで失礼させてもらうね」そう言って、座っていた椅子を片付けようとした。その背中に言葉を垂らす。
「ニセモノなんでしょ、コレ」
動きが止まった。今度は独り言として、つぶやく。
「自作自演だったりして」
明美に目をやると、唇を固く結んでいるように見えた。
「バレるのが怖い。違います?」
「ずいぶんな言い草だね」
視線を上げると、店の主がオレを見下ろしていた。
「それが明るみに出ることを避け、忙しいだの、なんだのって理由つけて取材を断り続けてる。そうですよね? テレビ局の取材を受けないってのも、キナ臭いな。そもそもアルバイトの子なんて、いたんすか」
うつむいていた明美が、鼻をすすり始めた。もう辞めてください、言い過ぎです、だと。いまさらなんだよ。ここからが本番だ。
「裏は、とれてんすよ。鑑定で名の通った3名の専門家が、同意見です」
店の主は、横を通ったスタッフに、自分が持っていたグラスを預ける。それからエプロンのポケットに両手を突っ込んだ。近くの席から客の視線を感じる。
何かを試されている気がした。
「その通り。だから、もう二度と来ないでもらえると、うれしい。益子さんには、対談の話を断られたと、君から伝えてもらってもよいだろうか。私からも彼女に連絡はするけれども。そういうわけで、厨房に戻らせてもらうよ」
コイツ……なんで否定してこないんだ。本当に贋作なのか。でもそれにしては反応がなさ過ぎる。あー、わけがわからん。クソっ。
湧いてきた怒りに任せて厨房のドアを押し開けた。
「なんで否定しない!」
厨房内の視線が集まる。
「いい加減にしてください!!」
追いかけてきた明美が、オレと店の主の間に入ってきた。でも、うつむいている。
「アルバイトの子って、あたしなんです」
声は、さっきと違って、か細い。尻つぼみで小さくなる声だ。
「悔しくて…あたしが、やったんです」
「明美ちゃん、それは言わない約束だよ。
「これ以上、長谷川さんが馬鹿にされるの…すみません…あたしから、お願いしたのに」
泣き出しそうな声だった。明美は腰を折って頭を下げる。
「2度も迷惑をかけることになって、ごめんなさい」
明美は手で顔を覆い、厨房の床にしゃがみ込んだ。視界の邪魔だった明美が消え、オレは店の主と向き合う。なぜか既視感があった。
「長谷川さん、どういうことか話してもらえません?」
「嫌だな」
店の主は、しゃがんで明美に寄り添う。言葉をかけ、なだめ終わると、再び背中を見せた。その瞬間、去っていく後ろ姿が父親とダブった。
もう嫌なんだ。
感情のない声で、そう言い残して、父は家を出た。以来、父とは会っていない。この男とも、なぜだか2度と会えない気がした。このまま行かせてはならない。そんな気もした。厨房の裏口を出た男を追い、前へ出る。
「わかりました! お願いします! チャンスをください」
「なんだい急に」
目の前の男が腕を組む。
周りには、赤色と黄色のビールケースが積み上げられていた。折り畳まれた段ボールの山と、セロファンのようなビニールのような透明紙が束になっているのも目立つ。水色と黒色のバケツも多い。
「さっきのセリフ、本当は自分に言ったんです。チャンスじゃないすかって」
足元のアスファルトは乾いておらず、所どころ、浅い水たまりができていた。構わず両膝をついた。
「オレは裏なんてとってないし、専門家に意見も訊いてない。嘘ついたんです。カマかけたんです。そうした非礼や無礼も謝罪します。この通りです」
手もついて頭を下げようとしたが、できなかった。脇をつかまれたからだ。
「勝手が過ぎるね」
持ち上げられる。強いチカラだった。
「店内は毎日、床をモップ掛けしているし、店の外も、周りの掃除を怠ったことはないのだけれど、ここは昨日、店の仲間が飲み過ぎて胃の中身を戻した場所だから。これ以上は膝も痛めるよ」
正面にいる男は優しい目をしていた。あのときの父になかった喜怒哀楽が、ここにはあった。
「僕はね、目の前の人に嘘をつかないと決めていてね。態度の豹変ぶりには正直、とても驚いてはいるのだけれど、君をそうさせるだけの何かがあって、そのためになりふり構わず、というのは嫌いじゃない」
ガラスが割れるような音がした。厨房からだ。
「さっき僕が話したことで、嘘は1つもない。だからこそ、なのだけれど、明美ちゃんから聞くといい。この話を僕からすることは難しいんだ。さあ」
言葉の先、厨房の出口で、箱ティッシュを抱えた明美が、黄色のビールケースに腰かけている。目が合うと、彼女は盛大に鼻をかんだ。
「あそこに書かれた『子』って、あたしのことなんです。あたしを抱いた母のことを父が詠んだんですよ、あの短歌」
どいつもこいつも、わかりにくいヤツばかりだ。