昔、僕の地元で一瞬だけ喫茶店が盛り上がったことがありました。
僕が住んでいたのは郊外のベッドタウンで坂しかないようなところだったのですが、駅から家まで徒歩20分の、坂を上って下って、また上って下る途中に、あるとき喫茶店がオープンしました。
当時僕は大学受験の浪人生で、新宿にある予備校に通っていました。予備校が夕方に終わって、電車に1時間乗って駅で下りて、それから坂を上って下って、また上って下る、あと5分も歩けば家に着く坂の途中でした。
はじめはあまり気にしてなかったのですが、あるとき格子ガラスの扉から中を覗くと、近所に住む中学校時代の同級生が数人集っていたのです。僕はガラス戸に付いた取っ手を引きました。
店内は狭くて、カウンター6席と二人がけの小さなテーブルがひとつあるだけでした。カウンター席に座った彼らは全員高校は別だったのですが、それぞれバンド活動をしていた音楽仲間だったので、中学卒業後もしばしば会っている友人でした。
気が付くと僕は、時間があればその喫茶店に行くようになっていました。行くとたいてい誰か友人がいたのです。とりとめのない話をしながらコーヒーを飲んだりナポリタンを食べたりしました。
それまで喫茶店に行く習慣がなかった僕は、なんだか新しい世界が開けたような気がして嬉しくなっていました。でもその喜びは、誰かに伝えて分かち合うのではなく、自分ひとりで噛みしめる種類のものでした。むしろ誰にも言いたくないとさえ思うようなものでした。
しばらくの間、楽しい時間を過ごしていたのですが、数ヶ月の内に、次第に休業日が多くなっていきました。そうしてとうとう、格子ガラスの向こうに灯りが灯ることはなくなってしまいました。
駅から15分、わざわざ坂を歩いて通う人はいません。近所の子供たちだけでは、きっと続けられなくなったのでしょう。
坂の途中の喫茶店が再び開くことはありませんでした。喫茶店が閉店してからも、僕は駅からの道を上って下って、また上って下って家に帰りました。