ぼくは、シミュレーションゲームが好きで、特にコーエーから出た「三國志IX」なんて名作過ぎて、何時間やったか分からないほどです。あんまりやり過ぎたもんだから、650人くらい登場する武将の能力値(統率、武力、知力、政治)はほとんど暗記してしまったくらい。当時、もう社会人にはなってましたから、そうそうやり込むわけにもいかなかったのですけど、年末年始とか少しまとまった休みを取れたりすると、48時間ほとんど寝ずに、タバコを吸いまくりながらやって、めちゃくちゃ汗臭くなってとか、なんかいくところまでいってしまう感じがありました。
こういう時間は時間でいいですね。
誰にも何にも遠慮せず、後先考えず、倫理観とかどうでもよくなって、目の前のことに没頭する時間。
これはこれで「自分だけの時間を生きている」感覚があったように思います。
今でもそういう時間の使い方にあこがれる気持ちはあります。だからもし一週間くらい一人になれる時間があったなら、そういうことをやるかもしれない。「ドラゴンクエスト」もいいし「プロサッカークラブをつくろう!」もいいしね。
これを、狭義の「自分の時間」としましょう。
一方で、広義の「自分の時間」というものもあるような気がしています。
なんだか格好つけるようで、そう書くのに少しためらいがありますけど、長く生きてくると、ぼくはぼくの人生を生きているようで、ぼくだけの人生を生きているわけではないという気がしてきます。ぼくの時間の中には、これまでに関わってくれたあの人やこの人の時間も流れていて、特にもう亡くなって会えなくなってしまった人たちについては、そのたちの人生を少し預かって、いま一緒に生きているような感覚もある。さらには直接関わったことはなくても、前の時代を生きて、その生き方や人生を通じて発したメッセージに共感するあの人やこの人の魂も、勝手に引き継いでいる感覚もあって、本当に勝手ですけど、もうそれは自分だけの人生ではなくなってくる。
そんな風に誰かに頼まれたわけでもないし、先人や亡くなった人たちが、別にぼくに何かを託そうと思ったわけでもないわけなので、これはもう完全に自分の独りよがりなのですけど、でも少なくともぼくは、自分の人生を今、そんな風に考えています。
そしてそのことは大きなよろこびでもあるのです。
もちろん嘘をつけないとか、ハンパなことはできないとか、大変な面はありますけど、それは心強くもあって、孤独じゃない感じもあって、より大きな人生を、大きな流れとともに、より大らかに生きられている感覚もある。そして、そうしたいのちを一生懸命に生きることで、いのちを絶え間なく磨き続けることで、他の人には到達し得ない領域にたどり着けるかもしれないというワクワク感もあって、それはとっても報われる生き方でもあるのです。
だからぼくは今、「自分だけの時間」を生きられていると感じられるときはありません。
一方、組織とか社会とか、自分ではない別の「誰かの時間」を生きていると感じるときもありません。
そうではなくて、ぼくの人生は、「ぼくらの時間」を生きることで満たされています。
そして、そうした「ぼくらの人生」が、いつかぼくがいなくなるとき、誰かが自然とそれを引き継ぎたいと思ってくれるような、輝きを帯びたものになっていくといいなと思っています。
まあでもまたいつか一週間くらい、ゲーム三昧の日々も送れたらいいなって思うけど。
<参考>
人生は借り物競走。
(クルミドコーヒーのブログ 2010.4.28)