胡桃堂喫茶店

特集・師走篇[令和七年]忘れられない1杯

忘れられない1杯

魂という名の野生動物

 駅前の喫茶店でコーヒーを注文した男が、二人掛けのテーブル席に一人で座って、バックパックをひっくり返していた。

「あー手帳がない。バスかな。それともさっきんとこで失くしたのかな」

 混雑した店内で、男はひとり、ズボンの前ポケットや後ろのポケットに手を突っ込む。

「げっ、金もない」

 独り言も動きも止まる。財布のなかをのぞいた男が、小銭を数えていた。数え終わると顎髭を触り、小さく息を吸った。鼻から息を吐くと、通りかかった店員を呼び止めた。

「すいません、持ち合わせが足りないみたいで。悪いんですが注文したコーヒーをキャンセルしてもらえますか。あと、電話を借りたいんですが」

 言いながら、ひっくり返した荷物をバックパックに詰め直す。返事がないので、男は荷物の整理をしながら問いかけた。

「ダメですかね」

「いえ、承れます。ただ——」

 店員は右の手のひらを見せ、それを店の入口へ向けた。

「——ご注文の件ですが、あちらのレジ横にあるポストカード棚に、面白いものがありまして。ご迷惑でなければご紹介したいのですが、いかがでしょうか」

「面白いものって何? おれ金持ってないんだよ」

「はい、当店では〝お先に1杯〟という制度があります。あまり積極的には宣伝していないのですが、自分ではない誰かのために1杯分のコーヒー代金を先に支払う、という取り組みです。〝お布施〟のようなものでして、店の主の物好きが高じて——」

 店員の説明を男は口を挟まずに聞いた。腕を組み、顎髭を撫で、首をかしげる。

「——ハガキに、〝お先に1杯〟を受け取った人が、お礼というか、受け取った思いをしたため、それをお店に預けることで〝お支払い〟となります。投函はお店のほうでやっておきますので」

「おん、わかった。ありがとうね。じゃ、せっかくだから、ソレ、お願いします」

 席を立った男を店員が案内した。

 店は、カップルや女性グループで賑わっていた。隣り合う男女は見つめ合い、女性たちの席では話に花が咲いていた。20席ほどの店内は、ガヤガヤしている。男がどこへ顔を向けても視界に明るい表情が飛び込んできた。それに紛れ、男は店員の後についてレジへ向かう。

 男と店員がレジの横で足を止めた。

「ここにあるハガキの裏面を読んで、これだ、という1枚を選んでください。〝贈り手〟の思いが綴られています」

 レジの横につるされたポストカード入れには、10枚ほどのハガキが裏を向いて差し込まれていた。どれも細かい文字で空白が埋まっていた。

「〝受け取り手〟となるお客様のお返事は、表面の空欄に書いていただきます。たとえば——」

 店員が着ているエプロンの前ポケットから、一枚のハガキを取り出した。

「これは私が書き途中のものなんですが、ここです。送り主の名前や住所がありますが、その下の空欄に受け取ったお客様がお返事を書きます。今回で言えば——」

「おれってことね。おん、わかった。わかった」

「ポストカード棚のハガキは、表面は見ないようにしてくださいね。では、これだ、という一枚を探してみてください」

 カランカラン。

「いらっしゃいませ」

 〝お先に1杯〟を案内していた店員が、レジの中にいた女に目くばせをする。目が合った女は、入ってきたカップルに声をかけた。

「いらっしゃいませ。お客様は、何名様でしょうか」

 女とカップルのやり取りを店員が見守った。

「今、ちょうど満席でして——」

 レジの女が頭を下げる。

「——はい、ナイバシャですか」

 その言葉に、ハガキを選んでいた男の視線が引き寄せられる。男はレジの女、カップル、そして店員のやり取りに耳を傾けた。

「——ござい、ますよ。次にお席が空いたらご案内しますので、そのときに改めてご注文ください。表の記帳札にお名前を書いてお待ちいただけますか」

 男の視線がレジのほうを向いた。

 カップルを誘導し、戻ってきた女に店員が声をかける。

「一応さ、裏に行って残りを数えてきてもらえるかな。念のために本数は明美ちゃんとも共有してもらって」

「お任せください」女は笑顔を作って敬礼をし、厨房のほうへ向かった。

 店員が男に向き直ると、男は視線をポストカードの棚に戻した。

「これだ、という一枚とは、巡り合えましたかね」

「おん、胸にこう。グンッとさ、来るのあったよ」

 男が目の前にあったカードを一枚、手に取った。

 店員は口元を緩ませる。整えられた口髭が笑った。

「では、お席にコーヒーが運ばれてくるあいだ、どうかハガキの文面をかみしめてください。返事を書くためのペンは、ここから好きなのをお選びいただけたらと思います」

「じゃあ、せっかくだから蛍光ピンクにしちゃおうかな」

 男は蛍光ペンとハガキを持って席に戻った。

「変わった仕組みもあるもんだねぇ、ありがとうございますです」

 席に戻った男はハガキとペンを机に投げ、荷物の整理を続けた。

 すぐにコーヒーが運ばれてきた。

「こちらが、〝お先に1杯〟になります」

 ステンレス製のトレイを身体の前に抱え、店員は目尻にしわを寄せた。細くした目を男へ向ける。

「ゆっくり、していってくださいね」

 店員が軽くお辞儀をすると、混じり始めたグレー色の前髪が垂れた。それを耳にかけながら去って行く店員の背中を見て、男は目を細め、ハガキを手にした。

「ありがたや、ありがたや。あ、電話は借りられるんだっけか」

 ジーンズの前ポケットからタバコを取り出し、一本をくわえた。ジッポーを探してポケットをまさぐるが、見当たらず。火がついていないタバコをくわえたまま、男は文面に視線を落とした。

 そこには次のように書かれていた。

 

 

 

  すべてがあなたにちょうどいい

  今のあなたに 今の夫がちょうどいい
  今のあなたに 今の妻がちょうどいい

  今のあなたに 今の子供がちょうどいい
  今のあなたに 今の親がちょうどいい
  今のあなたに 今の兄弟がちょうどいい

  今のあなたに 今の友人がちょうどいい
  今のあなたに 今の仕事がちょうどいい

  死ぬ日もあなたにちょうどいい
  すべてがあなたにちょうどいい

魂という名の野生動物

国が変わり、時代が移っても、なぜか同じ声がする。声は水を注ぐ仕草になり、花を活ける手になり、甘いものを分け合ったり奪い合ったりする。相手と初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っているような瞬間がある。街の喫茶店、空港、異国の大聖堂、港町の酒場、上空の機内、下町の屋敷、高台の牧場、都会の蕎麦屋、等々。それぞれの声は交わらないまま、しかし響き合い、やがて別の場所を立ち上げます。そこにいるのは、似た選択で同じような後悔を抱き、迷い、胸を熱くする、名も立場も違う人々です。その記憶をここで静かに追いかけます。

 

これは、時間を超えて繰り返される、いくつかのいのちの物語です。


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