駅前の喫茶店でコーヒーを注文した男が、二人掛けのテーブル席に一人で座って、バックパックをひっくり返していた。
「あー手帳がない。バスかな。それともさっきんとこで失くしたのかな」
混雑した店内で、男はひとり、ズボンの前ポケットや後ろのポケットに手を突っ込む。
「げっ、金もない」
独り言も動きも止まる。財布のなかをのぞいた男が、小銭を数えていた。数え終わると顎髭を触り、小さく息を吸った。鼻から息を吐くと、通りかかった店員を呼び止めた。
「すいません、持ち合わせが足りないみたいで。悪いんですが注文したコーヒーをキャンセルしてもらえますか。あと、電話を借りたいんですが」
言いながら、ひっくり返した荷物をバックパックに詰め直す。返事がないので、男は荷物の整理をしながら問いかけた。
「ダメですかね」
「いえ、承れます。ただ——」
店員は右の手のひらを見せ、それを店の入口へ向けた。
「——ご注文の件ですが、あちらのレジ横にあるポストカード棚に、面白いものがありまして。ご迷惑でなければご紹介したいのですが、いかがでしょうか」
「面白いものって何? おれ金持ってないんだよ」
「はい、当店では〝お先に1杯〟という制度があります。あまり積極的には宣伝していないのですが、自分ではない誰かのために1杯分のコーヒー代金を先に支払う、という取り組みです。〝お布施〟のようなものでして、店の主の物好きが高じて——」
店員の説明を男は口を挟まずに聞いた。腕を組み、顎髭を撫で、首をかしげる。
「——ハガキに、〝お先に1杯〟を受け取った人が、お礼というか、受け取った思いをしたため、それをお店に預けることで〝お支払い〟となります。投函はお店のほうでやっておきますので」
「おん、わかった。ありがとうね。じゃ、せっかくだから、ソレ、お願いします」
席を立った男を店員が案内した。
店は、カップルや女性グループで賑わっていた。隣り合う男女は見つめ合い、女性たちの席では話に花が咲いていた。20席ほどの店内は、ガヤガヤしている。男がどこへ顔を向けても視界に明るい表情が飛び込んできた。それに紛れ、男は店員の後についてレジへ向かう。
男と店員がレジの横で足を止めた。
「ここにあるハガキの裏面を読んで、これだ、という1枚を選んでください。〝贈り手〟の思いが綴られています」
レジの横につるされたポストカード入れには、10枚ほどのハガキが裏を向いて差し込まれていた。どれも細かい文字で空白が埋まっていた。
「〝受け取り手〟となるお客様のお返事は、表面の空欄に書いていただきます。たとえば——」
店員が着ているエプロンの前ポケットから、一枚のハガキを取り出した。
「これは私が書き途中のものなんですが、ここです。送り主の名前や住所がありますが、その下の空欄に受け取ったお客様がお返事を書きます。今回で言えば——」
「おれってことね。おん、わかった。わかった」
「ポストカード棚のハガキは、表面は見ないようにしてくださいね。では、これだ、という一枚を探してみてください」
カランカラン。
「いらっしゃいませ」
〝お先に1杯〟を案内していた店員が、レジの中にいた女に目くばせをする。目が合った女は、入ってきたカップルに声をかけた。
「いらっしゃいませ。お客様は、何名様でしょうか」
女とカップルのやり取りを店員が見守った。
「今、ちょうど満席でして——」
レジの女が頭を下げる。
「——はい、ナイバシャですか」
その言葉に、ハガキを選んでいた男の視線が引き寄せられる。男はレジの女、カップル、そして店員のやり取りに耳を傾けた。
「——ござい、ますよ。次にお席が空いたらご案内しますので、そのときに改めてご注文ください。表の記帳札にお名前を書いてお待ちいただけますか」
男の視線がレジのほうを向いた。
カップルを誘導し、戻ってきた女に店員が声をかける。
「一応さ、裏に行って残りを数えてきてもらえるかな。念のために本数は明美ちゃんとも共有してもらって」
「お任せください」女は笑顔を作って敬礼をし、厨房のほうへ向かった。
店員が男に向き直ると、男は視線をポストカードの棚に戻した。
「これだ、という一枚とは、巡り合えましたかね」
「おん、胸にこう。グンッとさ、来るのあったよ」
男が目の前にあったカードを一枚、手に取った。
店員は口元を緩ませる。整えられた口髭が笑った。
「では、お席にコーヒーが運ばれてくるあいだ、どうかハガキの文面をかみしめてください。返事を書くためのペンは、ここから好きなのをお選びいただけたらと思います」
「じゃあ、せっかくだから蛍光ピンクにしちゃおうかな」
男は蛍光ペンとハガキを持って席に戻った。
「変わった仕組みもあるもんだねぇ、ありがとうございますです」
席に戻った男はハガキとペンを机に投げ、荷物の整理を続けた。
すぐにコーヒーが運ばれてきた。
「こちらが、〝お先に1杯〟になります」
ステンレス製のトレイを身体の前に抱え、店員は目尻にしわを寄せた。細くした目を男へ向ける。
「ゆっくり、していってくださいね」
店員が軽くお辞儀をすると、混じり始めたグレー色の前髪が垂れた。それを耳にかけながら去って行く店員の背中を見て、男は目を細め、ハガキを手にした。
「ありがたや、ありがたや。あ、電話は借りられるんだっけか」
ジーンズの前ポケットからタバコを取り出し、一本をくわえた。ジッポーを探してポケットをまさぐるが、見当たらず。火がついていないタバコをくわえたまま、男は文面に視線を落とした。
そこには次のように書かれていた。
すべてがあなたにちょうどいい
今のあなたに 今の夫がちょうどいい
今のあなたに 今の妻がちょうどいい
今のあなたに 今の子供がちょうどいい
今のあなたに 今の親がちょうどいい
今のあなたに 今の兄弟がちょうどいい
今のあなたに 今の友人がちょうどいい
今のあなたに 今の仕事がちょうどいい
死ぬ日もあなたにちょうどいい
すべてがあなたにちょうどいい