胡桃堂喫茶店

特集・神無月篇[令和七年]午後3時

午後3時

魂という名の野生動物

髭面の男が、ログハウスから延びるウッドデッキの縁に腰かけていた。

 背が高く、太い幹の広葉樹が何本もそびえている。それが長い日陰を作り、ウッドデッキを日差しから守っていた。立ち並ぶ広葉樹の隙間から流れてくる風に、顔や腕を撫でられながら、男は白い馬を眺めていた。

「観光客も来ない場所だから、お客さんなんて珍しいです」

 コップと湯飲みがのったお盆を持って、女が掃き出し窓から出てきた。

「お客様用のものがなくて、湯飲みでなんですが」

 ウッドデッキに座ったまま、男が振り返る。

「いや、冷たいものならなんでも助かります」

 礼を言って湯飲みを受け取るとき、男は一瞬だけ女の指を見た。

「喉がカラカラでしてね」

 一気に飲み干した。

「わざわざ、この牧場を目的に来るなんて、相当な競馬ファンですね。グアルディオーラがここにいるのは、あまり知られてないんです。あれで人懐っこいから、きっと喜んでますよ」

「いやー、我々ほどの筋金入りになるとね。情報網ってすごいんですよ。国内の牧場に居ることを知ったときから、一目会いたいなって、ずっと思っててね」

 男は半身になって振り返り、女の目をまっすぐに見て、べらべら喋った。

「ここへは休暇で?」

 女がお盆を置いて、掃き出し窓から戻ってきた。後ろ手に閉める。

「ええ、まあ。違うか、半分仕事みたいなもんですね」

「どんなお仕事されてるんですか」

 女は表情を緩ませた。声は穏やかなトーンだった。

「撮ったり、書いたりする仕事です」

「撮ったり書いたり、ですか」

 女の声が低くなる。

「実は、探偵みたいなこともやってまして――」

 男は空の湯飲みを置き、前を向いたまま、バックパックのなかから革製の名刺入れを取り出した。二枚の名刺をとって指にはさむと、自分の頭の後ろに差し出す。

「まあ、何でも屋みたいなもんです。こういう者でして」

 女が前かがみで一歩、二歩、三歩、踏み出した。名刺に書かれた文字を読む。

鯨井くじらいもとむさん。週刊アフタヌーンティーの記者さんなんですね。ここって女性の編集長がテレビでコメンテーターやってるとこですよね」

「ええ、よくご存じで。人気者ですよね」

 女が首を横にした。

「それと、こっちは」

 女の声が緊張を帯びた。

「こっちは、何て読むんですか。株式会社——」

僻地へきちです」

 男はウッドデッキの縁で脚をブラブラさせている。

「取材で全国、ときには海外にも行くんで、まあいろんな場所に行くんですよ。森の中もあれば地面の下とか海の上とか。おれの場合は、人のいない場所と縁があって、映画やドラマなんかの撮影地の相談、紹介、交渉、手配なんかを専門に請け負うこともやってましてね」

 女は名刺を受け取らずに後ずさり、ログハウスの掃き出し窓に寄りかかった。

「いや、持ってってもらえませんか。念のために」

 男は、指ではさんだ2枚の名刺同士を左右にこすり合わせる。

「それで、何か御用ですか」

 女の表情は硬かった。眉間に少しだけしわが寄り、口は一文字に結ばれた。声には棘がある。

 男が片膝をついて立ち上がる。女に向き直ると、男は2枚の名刺を指にはさんだまま、前へ突き出した。ウッドデッキを隔てて向き合う女の背は、男よりも高い。

夏禰なつねという名前を追って、ここにたどり着きましてね——」

 男は言葉を切った。女の反応をうかがう。一回、二回。女は瞬きをし、コップに口をつけた。女は男から視線を逸らさない。

「——さっき、無視されちゃって。お戻りになるまで、ここで待たせていただくわけには参りませんか。佐伯さん」

 男は、指ではさんだ2枚の名刺同士を左右にこすり合わせる。

「お引き取り願えますか」

 佐伯と呼ばれた女が一歩踏み出した。真っすぐ立つ。コップを持っていない反対側の手を脇にはさんだ。背筋が伸び、長い脚が目を引く。

「いや、失礼。今は旧姓を名乗られているのかな、海老沢さん」

 男は口の端を片方だけ上げ、指ではさんだ2枚の名刺同士を自分の顔に引き寄せる。そのまま顎を上げると、上目遣いで女を見た。

「あの子には、まだ時間が必要です」

「いやいや、別に首に縄をつけて帰ろうってわけじゃない」

 男が名刺をポケットにしまった。

「ただ、確かめたいだけですよ。おれだって要件を知らないんだ。居場所を突き止めるまでの契約なんです。会って話せれば、それでおれの役目は——」

 女は持っていたコップの中身を男に浴びせかけた。

「指一本触れさせないわ」

 男はまぶたを閉じただけで、動かない。ゆっくりとまぶたを開け、顔にかかった液体を片手で拭う。その指をなめた。

「麦茶、かな」

 男が両手で、麦茶をかぶった髪の毛を頭の後ろへなでつける。

「慣れてます、こういうの」

「帰って」

「おれね、痛覚が麻痺してて。痛みは、ほとんど感じない気質なんです。こっちも仕事なもんでね。待たせてもらって、いいですか」

 男は女に背中を向けたまま、ウッドデッキの縁に腰かけた。

 視界の先の円馬場に白い馬の姿はなく、代わりに鮮やかな栗色の毛をした馬が一頭、肢体の側面をこちらに向けて立っていた。

「あれ、グアルディオーラどこ行ったよ?」

 男の背後から足音が近づく。止まった。

 男が振り返り、見上げると、女は口を開け、まぶたを大きく開いていた。

「この距離で…しかも、こちらに身体の側面を見せている」

 女は前を向いたまま、視線だけを男に落とした。

「あなた、不思議ね」

「珍しい褒め言葉をありがとうございますです」

 男がニヤニヤしながら前を向く。

夏禰なつねが人を怖がるようになったのは、あの人のせいよ。今でも男性を怖がる。それなのに——」

「怖がる?」

 サーーーッ。長い風が会話を遮った。広葉樹の葉と葉が擦れる。それが止むと、馬が鼻を鳴らした。

 男が女に振り返った。

「いやいや。あれは恐怖を抱く人間の振る舞いじゃない。おれにはわかる。おれのことを完全に無視したんだ。怯えている小娘にできる芸当じゃない。嘘ついて誤魔化そうったって、そうはいかないね」

夏禰なつねは馬よ。人間じゃないわ」

魂という名の野生動物

国が変わり、時代が移っても、なぜか同じ声がする。声は水を注ぐ仕草になり、花を活ける手になり、甘いものを分け合ったり奪い合ったりする。相手と初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っているような瞬間がある。街の喫茶店、空港、異国の大聖堂、港町の酒場、上空の機内、下町の屋敷、高台の牧場、都会の蕎麦屋、等々。それぞれの声は交わらないまま、しかし響き合い、やがて別の場所を立ち上げます。そこにいるのは、似た選択で同じような後悔を抱き、迷い、胸を熱くする、名も立場も違う人々です。その記憶をここで静かに追いかけます。

 

これは、時間を超えて繰り返される、いくつかのいのちの物語です。


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