胡桃堂喫茶店

特集・長月篇[令和七年]映画

映画

魂という名の野生動物

「——ロケ地としては申し分ないと思いますけどね」

 くわえタバコの男が、電話ボックスの折り戸を開け放していた。

 向かいには、山道をはさんで草原があり、なだらかな起伏を作っていた。その丘を越えた向こうは、右から左までが山で、山肌を緑が埋め尽くしている。

 受話器を肩と耳の間にはさんだ男は、バックパックを足下に置き、折り戸が閉まらないよう右腕で抑えている。反対の手に持った野球帽で自分の顔をあおぐ。

「そう言われても。相手は目も合わせてくれないんで」

 短くなったタバコの灰を寄り目にして見つめる。

「シカトこかれましたわ」

 着ている紺色のポロシャツに、タバコの灰が落ちた。

「もう一時間くらいになりますよ」

 顎を引き、ポロシャツに落ちたタバコの灰をデコピンで弾く。顔をそむけた男がタバコをつまむと、それを地面へ落として踏みつけた。

「いい加減に教えてもらえませんか」

 男が電話ボックスの内側に、もたれ掛かる。かがもうとするが受話器のコードの長さが足りず、立ち上がる。

「誰なんすか夏禰なつねって」

 男の顔にハエがたかる。ツバを持って野球帽で払い、顔をそむけた拍子で受話器が肩から落ちた。拾い上げようとして折り戸が閉まる。

 男は、持っていた野球帽を電話ボックスの外へ投げつけた。

 受話器が、コードの先の電話機本体に、ぶら下がって揺れる。

「だいたい、どこなんだよココは」

 男が電話ボックスを蹴った。

 太いコードで、電話機本体からぶらさがっている受話器が、コードのねじれに従って揺れる。相手の声が電話ボックス内に漏れていた。

 男は折り戸を開け、電話ボックスの外に出る。向かいの山側から風が吹き下ろす。

 サーーッ、サーーッ、サーーッ、サーーッ。

 電話ボックスの後ろに立ち並ぶ、背の高い広葉樹たちの間を風が抜けていった。

 男は、まぶたを閉じた。

「あーきもちい」

 電話ボックスのなかで、電話機本体からぶらさがっている受話器が、大きく揺れていた。

 両手をジーンズの前ポケットに突っ込んで、電話ボックスの外から、ぶら下がる受話器を見下ろす。

「ちょっと一瞬、黙っててもらえます?」

 丘のほうから物音がした。

 まぶたを開くと、草原の右奥から、一頭の馬が駆けてくる。ここから丘の上まで百メートルくらい。丘の上を右から駆けてきた馬のたてがみ尻尾しっぽが大きくうねる。そうして馬は、そのまま丘の上を左へと駆け抜けた。

 男が電話ボックスのなかに戻って、受話器を拾う。

「もしもーし、さっきの馬、だと思うんですがね。わかんないけど、戻ってきて、行っちゃいました」

 男が顔をそむけ、受話器を遠ざける。

「ったく。うるせーな、新作を撮るわけでもねーのに」

 受話器を肩と耳ではさみ「はいはい、わかりましたよ」そう言って胸ポケットからタバコを出した。ライターを探すが、見当たらない。火がついていないタバコをくわえたまま、顔の正面で受話器を持つ。送話口に向かって大きな声を出した。

「もう少しだけ、待ってみますね。それじゃ」

 受話器を電話機本体に置いた。

 タバコに火をつけながら、男が電話ボックスの外に出る。首を振って、草原を見渡した。人影はない。

「決めた。経費は絶対に水増し請求する」

 男は野球帽を拾い、電話ボックスがある道路を左へ真っすぐ進んだ。右手は緩やかな上り草原で、左手は背が高く、太い幹の広葉樹が並んでいる。その切れ目に割れた立札があった。書かれてあったであろう文字は読めなかった。立札を左に曲がって下り坂を降りて進む。右手に厩舎きゅうしゃがあり、その隣に建てられたログハウスへ男は向かった。

 【W.C.】と書かれたドアを押し開ける。持っていた野球帽を脇にはさみ、洗面台の蛇口をひねった。水で顔を洗う。勢いよく顔を上げると、蛇口を締める。鏡に映った男の顔は日に焼けて黒い。顎や頬を黒い髭が覆う。鼻毛が出ていることに気づき、それを指で鼻の中に押し戻そうとする。押し込んでは出てくることを数回、繰り返したとき、鏡の端に白っぽい馬が映った。振り返ると、小さな円馬場で干し草をはんでいるのが見えた。馬の額には黒い色の太い線が見える。 

「グアルディオーラか、もしかして」

 男は足音を立てないよう、ログハウスから表に出る。裏へ回るときも、足音を立てないよう、かなり、ゆっくりと動いた。それは端から見ると、スローモーションのようだった。この間、男は目で、白い馬を茂みの先に捉え続けた。

 ガサッ。

 男のジーンズが小枝を引っかけた。

 白い馬が首を上げる。

 男との距離は約五十メートル。

 首を上げた馬の左耳が男のほうを向いた。

 その首をくぐるようにして、女が姿を見せた。背が高い。馬の身体よりも頭の位置が高かった。女は前かがみになり、馬の肢体、側面を大きく何度も撫でる。動きに合わせて、女の長い黒髪が揺れた。

「グッボーイ、グッボーイ」

 女は馬の腹を大きく、ゆっくりとさすると、手を止め、馬から二歩、三歩と離れた。女が自分の身体の向きを変えると、馬が女の背後につく。

 男が腕時計を見た。

「新幹線、間に合うかな」

魂という名の野生動物

国が変わり、時代が移っても、なぜか同じ声がする。声は水を注ぐ仕草になり、花を活ける手になり、甘いものを分け合ったり奪い合ったりする。相手と初めて会ったはずなのに、ずっと前から知っているような瞬間がある。街の喫茶店、空港、異国の大聖堂、港町の酒場、上空の機内、下町の屋敷、高台の牧場、都会の蕎麦屋、等々。それぞれの声は交わらないまま、しかし響き合い、やがて別の場所を立ち上げます。そこにいるのは、似た選択で同じような後悔を抱き、迷い、胸を熱くする、名も立場も違う人々です。その記憶をここで静かに追いかけます。

 

これは、時間を超えて繰り返される、いくつかのいのちの物語です。


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