「
女が馬の肢体にブラッシングをしている。
シャーッ、シャーッ。
声の主は馬房の柵の外に立っていた。バックパックを背負い、野球帽のツバを持って顔をあおぎ、反対の手のひらで日差しを遮っていた。
シャーッ、シャーッ。
「ここに来れば、会えるって聞いてきたんだけど」
男は野球帽を脇にはさみ、首に掛けているタオルで汗を拭く。
シャーッ、シャーッ。シャーッ、シャーッ。
女が馬の首元をブラッシングする。ときおり馬の腹を反対の手のひらで撫でた。
「あのー、お仕事中にすいません」
女は、柵の外にいる男とは反対側の柵を開け、
馬房越しに、男は女を追いかけた。追いつくと馬房をはさみ、並んで歩く。
「前もって聞いてませんか」
女がしゃがみ、柄の長い
「私、こういう者です」男が名刺を持って腕を伸ばす。頭の上に掲げ、左右に大きく振って見せた。
掃き掃除をする女は、男のほうへ向けて通路を左から右へ進んだ。
「弱ったねぇ」名刺をポケットに入れ、男は足を止めた。首にかけたタオルで顔の汗を拭く。「栄光牧場の立札、なかったしなぁ」野球帽であおぎながら、男が周囲を見渡す。
馬房から先は、見通しが良くなだらかな丘陵地帯で、見える範囲に人の気配があるのは、ここだけだった。
厩舎の裏側も、緩やかな起伏の草原になっていて、右から左までの斜面一帯に草が生えている。長さが刈り揃えられた、というふうではないが、一帯の草は人間の
コンクリートを打つ
男は走って厩舎の横に回ると、女のあとに馬がついて坂を上っていく。女の背は低く、後ろ姿は子どものようにも見えた。
「引き綱もなしですかい」
手ぶらの女と裸の馬が道路を渡り、道をはさんだ反対側の草原で止まる。男が呼びかけた。
「あの、いらっしゃらないなら——」
女が馬の
山から吹き下ろす風が、緩やかな斜面に生えた草を一斉に揺すった。鼻腔の奥まで届くような、混じりけのない空気が男の身体を通り過ぎる。
首を垂らしていた馬が頭を起こす。女は
声にならないような音が男の口から一瞬だけ漏れると、男の右手が僅かに動いた。
「行っちゃったよ」
女と馬の姿が次第に小さくなる。丘の向こうに消える直前、歩みを止めた馬の身体が横を向く。栗色の毛で覆われた馬が、日差しを浴びて輝いた。
「映画のワンシーンかっての」
男が胸ポケットのタバコをとった。ライターを探し、ジーンズの前ポケットからジッポーを見つけると、タバコを一本、口にくわえた。
「だとしたら俺は、何役だっつうんだよ。ふんっ」
ピンッ、シュボッ。シュボッ。シュボ。ライターの火が付かない。
男が山に背を向ける。背負っていたバックパックから、使い古された革張りの分厚い手帳が、零れ落ちた。落ちたはずみで手帳は開き、挟まっていたものが風に飛ばされる。それが男の視界に飛び込んでくると、くわえていたタバコを口から落とした。落ちるタバコを掴もうとして、持っていたジッポーを放ってしまう。どちらも拾い、手帳のホコリを払うと、男は飛ばされたものを追いかけた。追いかけ、地面に舞い落ちたものも拾い上げた。
そこには、男自身と女の間で、幼い子どもが手を引かれて歩く姿が写っていた。
「親役も、ろくに勤まんねえくせにさ」