「お米ひと粒の中には7人の神様がおるでね」って、夏休みに田舎のばあちゃん家に遊びに行くと、ご飯の時にいつも言っていた。ばあちゃんは「神様が入っとるから感謝して食べんといけんよ」と口をもぐもぐさせた。
わかった、って答えながら、でもぼくは違うって思ってた。炊きたてのつやつやのご飯は、お米のひと粒ひと粒がにっこりと笑った神様のお顔をしていて、ひと粒に7人が入っているんじゃなくてひと粒ひと粒が神様そのものだ、ぜんぶお顔が違うから、ぜんぶ違う神様なんだって思ってた。
ばあちゃんは別の時に、「日本には108の神様がおるんよ」と教えてくれた。ばあちゃんでさえ全部の名前を憶えられないほど多い数だけど、ご飯一膳のお米は、もっとずっと多い。一回試しに、ご飯粒を108個、机に並べてみたことがある。そしたらお新香が乗ったお皿よりも少ない場所に収まってしまった。それをまたひと粒ひと粒お箸でつまんで、空のお茶碗に戻してみたら、底の方に、まるで食べ残しみたいな小さな山ができただけだった。ご飯の粒108個ってこんなに少ないんだ、と驚いた。
ぼくの説は、お米ひと粒ひと粒が全部違う神様だ。ご飯茶碗にこんもりと盛られたご飯はいったい何粒のお米なのだろう。いったい何人の神様を毎日噛み砕いているのだろう。ばあちゃん、神様って細かくバラバラに分かれてもひとりなの? ひと粒に7人、その隣のひと粒にも7人、その7人はそれぞれ全部違う神様なの?そしたらぼくの説の7倍の数の神様が、一杯のお茶碗に入っていることになる。でもばあちゃんは神様は108人だと言ってた。だから、お米に入っている7人の神様の組みあわせはまったく同じではないかもしれないけど、それぞれのお米の中の神様は、必ず他のお米のと「かぶって」いる。体がバラバラに引き裂かれている。そんなのやっぱりおかしい。お米には、神様の「一部」が7人分入っているんじゃなくて、お米のひと粒ひと粒が神様そのものなんだ。そして神様の数は108よりももっとずっと多いんだ。
ぼくはお茶碗に盛られた炊きたてのご飯を前にして、じっとお米を見た。揺れる湯気の向こう側に、たくさんの神様が笑っている。中にはこちらを向いていない神様もいる。お顔が下向きになっちゃってる神様もいる。笑っていない神様もときどきいる。でもやっぱり思った通り、お顔は全部違う。全部の神様のお名前が分かったらいいのになあ。ぼくはふと思い立って、神様のお名前を付けてみることにした。神様にはもちろんすでにお名前があるだろうけど、愛称みたいなものだ。昔の人だって、そのようなことをしていたかもしれない。だって漢字ばっかりの長い名前は憶えられない。もっと憶えやすくて呼びやすくて親しみやすい、ぼくだけの愛称を付けよう。
ぼくはご飯のたびに、お米のひと粒ひと粒に名前を付けることにした。でも、ネバネバしたご飯粒を正確に数えることは本当に大変なので、いつか試してみた108粒のご飯のことを思い出して、お箸でつまむご飯の量をだいたいそのくらいにするようにした。そしてご飯を噛んでいる間に、108の名前を考えるのだ。108を考えるまでは飲み込まない。そうすれば毎回ご飯のたびに、だいたい全部のお米に名前を付けられる。もぐもぐ、むしゃむしゃ・・・太郎、次郎、三郎、四郎、五郎、六郎、七郎、八郎、タコ、イカ、カメ、ガメラ、ラドン、ゴメス、タックラー、モックラー、ドッチダー、アッチダー、ソッチダー、コッチダー、ダッチダー、ダッダダー、ドッドドー、ズッズズー、ジッジジー、ベッベベー、ボッボボー、ドッドドー、あ、さっき言ったか、プッププー、プップー、プー、プ、プ?は短すぎるか、いまのナシ、ナシシ、モシシ、ナッシシー、フナッシー、はもういるからダメだしフナッシーは神様じゃない、コナッシー、ならいいかな? ドナッシー、ドンナッシー、ドンナダー、ダンナダー、ナンダナー、メイラララ、メイランラララ、メインランラララ、ララランララランランラララン、ランランラララン、ランララン、ラーラララララ、ランラーラ・・・・・
おわり