胡桃堂喫茶店

特集・水無月篇[令和七年]ファンタジー

幻想の欠片

 透明な水は光の受け皿となり、どこまでも静かに凪いでいる。
 その穏やかな水面へ注がれる光は優しい泡と共に沈みゆき、孤独と沈黙の中で、祈りはやがて月となる。

 

 「月を泳ぐ金魚」

 

 あえかなる月の光で照らされた窓辺に彼女は佇んでいた。
 夜で染めたような黒い髪と、華纏うような白い装束が優しい夜風を受けながら柔らかに揺れ、彼女の掌は透明な水で満たされた金魚鉢に添えられている。優しく撫でるように、その金魚鉢の縁を細く白い指がなぞる。軌跡が一周を描く頃、透明に澄む水面には一滴、また一滴と雫が落ちては、その水紋を幾重にも広げた。雨のようにしきるその雫は水面に触れた瞬間、花がほころぶような優しい光を咲かせ、そして淡く滲むように消えてゆく。
 ———。凛と鋭く、また鈴のように清らかな磁器の音が響き、冷たい残響が耳の奥へと消えてゆく。
 彼女はこちらにやおら振り返ると、ふっと儚い微笑を浮かべ、「落ちるかぁ」と何気ない調子で呟いた。
 その時、私はとてつもないほどの焦燥と喪失の予感を覚え、追いすがるように彼女へと手を伸ばし、そして祈りにも似た懇願を叫んだ。その手が彼女に触れようとする刹那、しかし、私の手は透明な水面をただ虚しく揺らすだけだった。歪んでいく水面の奥で、彼女の姿は次第に消えていく。彼女の声がした。「———大事にしてね」
 水面の波紋が収まった時、月の光で満たされた窓辺に彼女の姿はない。そこにはただ、金魚鉢の中で淡い光を放つ、小ぶりな月が揺蕩うだけだった。

     *

 瞼をゆっくりと開き、朝の薄明の中で私は身体を起こした。汗でシャツが張り付き、わずかに鼓動の音が聞こえる。窓から差し込む朝日はどこか白々しい虚無感を感じさせた。
 久々に、彼女の夢を見た。そのことだけを認識し、夢の内容を少しでも失わまいと、他の意識を遮断して夢の記憶を掬おうとしたが、それでも夢の記憶は薄れてゆくし、雑念は断ち切ることができない。彼女のことを思うにつけ、次第に過去の記憶が想起されていった。
 そう———彼女は、透明な水のような人だった。
 彼女の在籍した大学やサークル、ひいては社会の中においてさえ、その存在は清らかな美しさを保ちながら、時代の流れや集団の同調といったものに逆らうわけではなく、けれども染まることのない透明さで澄んでいた。高潔さと、したたかな柔軟性を持ちながら己を上手く調和させ、ナニカに染まることなく生きる姿はまさに、透明な水のようであった。
 また、彼女は明朗で優しい性格と穏やかな佇まい、そして雪解け水のように清澄な風貌で、文学的素養や芸術方面への才能を持ち合わせ、まさに才色兼備を体現したような人だった。誰かが相談を一言持ち掛ければ、彼女はまるで映し鏡となったようにその悩みを呑み込み、優しくほどき、そして適切な助言を添えてくれる。その共感性と哲学的なアプローチは一介の大学生のそれを超えており、もはや母なる大海をその後ろに想起するほどであった。
 彼女と私が在籍していた文系創作サークルでは哲学を扱うこともあったため、他所よりも悩める子羊はやや多かったようで、彼女は度々その相談役を担っていた。その中でも、彼女の二つ後輩であった私は当時、いや今でも変わらないが、常時悩みを抱え込むような性格をしていたがために、私は彼女にほどよく世話を焼かれていた。己のみが特別であると自惚れたことはきっとなかったけれど、それでも私の不甲斐ないメッセージ一つに、夜更けの喫茶店へとすぐに連れ出してくれた彼女の慈悲深さは、当時の私にすれば惚れてしまうに十分すぎるほどであった。私はその繊細でいたいけな恋心を胸に、彼女が浮かべるその透明で清らかな水面へと、いとも簡単に落ちてしまったのである。
 彼女の水面へと沈んでしまった私は、もうどれだけ足掻いてもその慕情を抑えることは不可能であった。同サークルの数少ない友人にさえ「やめておけ」と、お前じゃ話にもならんというように鼻であしらわれたが、その時ばかりは、己が彼女の何かを理解していると驕ってしまった私は、彼女が大学を卒業する折に告白し、あえなく散った。
「…………」
 寝起きの回らぬ頭で過去を振り返り、そして今も薄れてゆく夢に意識を集中した。
 どうして今頃、先輩の夢を見たのだろう。…….あぁ、あの個展が始まったからなのかな。いつからだったっけ、たしか———
 その時、枕元のスマホに一件の通知が届いた。予感めいた心地でそれを見た瞬間、両掌に留めていた夢の砂はすべて溢れていった。

     *

「———ねぇ、聞いてる?」
 キンっと小気味よい音が、手元にある硝子のコップから響いた。ぼうっとしていた私が慌てて意識の焦点を戻すと、向かいに座る彼女の腕がこちらに伸び、その手先にあるコーヒースプーンが手前のコップに当てられていた。氷が音を立てて揺れ、水滴が硝子を伝う。
「カガミくん、君はいつもそうなんだから」彼女は少しの呆れと懐かしさとを含めた、微かなため息を吐いた。
 ヘッドフォンを外した時のように、周囲の雑多な音々が入り込んでくるのを私は感じていた。重なり合う会話、足音に扉が開く音、カウンターの奥から鳴る手作業の音、磁器の短い響き。喫茶店の環境を彩る音の重なりの中で、それでも彼女の声は澄み渡るようによく聞こえた。しかし、その綺麗で心地よいはずの声音が、何よりも耳に馴染まなかった。
「すみません、ちょっとぼうっと……というか、なんか現実感がなさすぎて」
「久しぶりだからね」彼女はつい一ヶ月ぶりくらいの軽い調子で答えた。
「いや華水さん、久しぶりじゃ済まないですよ」
 たったの2年くらいでしょう、彼女はそう呟きながら珈琲を口にした。コクっと小さな喉を鳴らし、口からカップを離すと、伏目のままその黒い水面に視線を落とした。
「まぁ、人が変わるには十分な月日が経ったのかもね」
 彼女はカップを両手で持ち、以前と変わらぬ微笑みを湛えた。夏の清澄な川のように、透明感のある優しい笑み。私は以前にその笑みから、早朝の清潔な白いシーツと風に揺れるカーテンのような、瑞々しい心地よさを覚えていた。しかし、そのイメージが再び湧くことはなかった。それが私にとって少しだけ寂しく、また微かな違和感にも繋がっていた。
「……いつ、東京に来てたんですか」
「今朝だよ。京都から夜行バスで、朝方、新宿に」
 私はシュガーポットから琥珀色の砂糖を掬う彼女と、掌中の懐中時計とを交互に見た。針は午前10時4分28秒を指した後、また次々と時間を刻んでいったが、特別、遅いとも早いとも感じなかった。『いつもの喫茶店にいるよ』という彼女からの唐突なメッセージが、私の携帯に表示されてから2時間ほどしか経っていなかった。
「来るなら、もう少し早く伝えてくださればよかったのに」
「んん、ごめんね。私も、急に思い立ったものだから」
「というか、こんなことしている暇あるんですか? 個展、もう始まっていますよね」
「……知ってくれてたんだ」彼女は伏し目がちに微笑み、その後を続けなかった。
 そうして、わずかに沈黙があった。私たちが言葉を交わすその間に、そのような沈黙が訪れるのは昔から変わらないことだったが、今の私には、その沈黙がかつてのようなものではないように思われ、それを拭うように進んで沈黙を受け入れた。どのくらい時間が経った頃か、私がカップを持ち上げるのとほぼ同時に、彼女もカップを持ち上げて、その口元へと運んだ。
「おいしいね、あの時のまま変わらない味」
「そうですね……」
 どこか含みのある彼女の言葉の先を探りながら、それにしても、と私は思案した。
 華水さんはいったい何を考えているのだろう。こんな唐突に、しかもこの喫茶店で……。
 私たちが会するその喫茶店とは、つまり彼女が私の相談によく乗ってくれていた喫茶店であり、そして約2年前にあえなく玉砕した喫茶店でもあった。つまり、私にとっては酸いも甘いもなんだかよく分からないものも経験した、妙味な空間なのであった。それゆえに、朝一番に自分を呼び出すようなことまでして、彼女はいったい何をしたいのかが、私には理解できなかった。
「……カガミくん、君はいま悩んでいるね?」
「ぅえっ」
「つまりこんなところかな。このあと意中の子と大事な約束があるというのに、僕はこんなことをしていていいのだろうか」
「いやっ、別に……」
「あれ、ほんとにあった?」
「ないですよ」私は吐き捨てるように呟き、水滴の垂れるコップを掴んで口へ運んだ。
「そっかぁ……」
「ないですって」
 彼女はふっと意味深な笑みを一息し、「そう」とだけ短く告げたのち、「なら、何か思い出したくないことでもあるのかな」と付け加え、懐から一通の封筒をおもむろに取り出した。
「それは———」私は咄嗟に声を上げた。が、その次に言うべき言葉は見つからなかった。
「見たくもないかな、それか、もうあんまり覚えてもいないかも」
「……それは、恥ずべきものではありません。むしろ、誇りであると思ってます」
 彼女は少し驚いた表情の後、どこか満たされたような笑みを浮かべ、その封筒をそっと机の上に置いて彼を見つめた。彼はその視線に耐えられず、顔を反らしながら気を紛らわせるようにもごもごと呟いた。
「あの、どうしてそれを……」
「———カガミくんも、変わったね。すぐ顔が赤くなっちゃうとこは変わっていないけど、ちゃんと、自分らしく」
 私は反らしていた顔を再び彼女へと向け、その言葉と視線を受け止めた。その時、私は彼女と再会して初めてその瞳の奥を見た。その瞬間に私は、再びその透明な水面に引き寄せられ、そして泡沫に包まれながら沈んでいく感覚を鮮明に覚えた。彼女の奥に広がる水は、やはり透明であった。しかし、以前に記憶していた透明感とは明らかに違う、異質めいた底のなさを感じさせた。それは、どこまでも深く広がる透明な闇のような———。
「きっと」彼女の言葉に、水を浴びたように意識が現実を掴んだ。「きっと、カガミくんがそう思ってくれていたから、これがそこにあったのかな」
 そして沈黙があった。私はわずかな混乱に頭の整理がつかず、彼女の次の言葉を待った。しかし彼女はそれで納得したように、何も言わずただ、机上にあるその封筒へ右掌を添えていた。お互いの珈琲はあと一口二口を残して、すっかり冷めていた。
「ねぇ、カガミくん。お願いがあるんです———」

     *

 彼女のお願いを聞くため、その夜、私たちは新宿から出る夜行バスに乗って京都へ向かった。
 夜行バスに乗ることはこれまでに何度かあったが、隣に彼女が座っていることにはどうしても慣れなかった。しかも、喫茶店で少し話したとはいえ、それはこれまでに空いた時間を埋めるには不十分な時間であった。少なくとも私にとっては。
 面に出さないようあれこれ考えている私をよそに、彼女はカーテンの隙間から流れる夜と街灯の光を眺めていた。周期的に彼女の頬が白い光に照らされては、また影となってを繰り返している。私はその横顔を見ていた。
「カガミくんは、朝は好き?」おもむろに、彼女が呟いた。
「朝、は……まぁそれなりに」
「そっか」
「華水さんはお好きなんですか」
「わたしは、嫌い」
「……どうしてですか」
「怖いから」
「朝がですか……?」
「うん、そう」
 彼女は窓にもたれていた体勢を戻し、カーテンを閉めてそっと目を閉じた。
「だって、すべてが白々しく見えるんです。わたしはもうそこに存在していないような気がして、どうしようもなく怖くなる。だから、わたしはもう夜にしか生きられなくなってしまいました。哀しい嘘も、胸を突く痛みも、そして黒い涙さえ、夜はその優しい暗闇で綺麗に隠してくれる。だから、わたしは朝から逃げるように夜を追いかけて、すがるように走り続けなくてはいけないの」
 彼女の囁くような声を聞き取るために傾けた身体を戻し、私はその言葉の意味を、真意を汲み取ろうとした。しかし思いつくのは、いま私たち二人が西へ向かって走っているということだけだった。果たしてそれが関係するところなのかは、判然としなかった。
「わかるかな」
「……」
「いつか、きっとわかってくれると思う」
 はい、と。そう言うことしかできないことが少し悔しかった。彼女はそこで言葉を止めた。私たちの間に沈黙があった。バスの駆動音と、この夜だけが、私たちが共有している唯一のものだった。彼女は目を閉じている。せめて同じ視界であることを求めて、私も目を閉じた。
 しばらく経った頃、暗闇とエンジン音の中に、彼女の声を聞いた。
「でもね」
 私はふと目を開いて彼女を見た。その顔は安らかに眠っているようだった。彼女の意識が夢うつつにある中で、その声の輪郭だけが澄んだように聞こえた。
「いつも、朝に追いつかれてしまうの」
 そうして、彼女は静かに眠った。

     *

 朝方、私たちは京都八条口に到着した。空には僅かばかりの雲が浮かぶのみで、心地よい朝の青空が伸びている。6月の半ばというのに、梅雨前線が突如として消え去ってしまった影響で空気は程よく乾いており、梅雨の気配はどこにもなかった。
「今日は暑くなりそう」
 彼女は京都の朝空を眩しそうに見上げ、お風呂行こっか、と行って歩き出した。私はその後をゆっくりと追う。
 河原町八条交差点を北に曲がり、先の河原町塩小路交差点から高瀬川の流れる方へ進むと、木屋町通に通じていく。柳が揺れる高瀬川沿いをしばらく進むと、細い路地の角にレトロな銭湯が現れる。古い町屋の壁に提灯が下がり、入り口にはガタガタと音がする木製の扉と、「ゆ」の暖簾があり、銭湯というに相応しい風貌をしていた。
 番台で受付をしている間、バス停から銭湯までの道を迷いなく進むその足取りに、よく来るのかと私が聞くと、彼女はうんと頷いた。
「京都で早朝からやってる銭湯って、あんまりないから。それに夜更けまでやってる。高瀬川沿いにあるのも趣深くて好きだな」
 彼女はそう言うと、じゃあ一時間後くらいにと残して暖簾の奥へ消えていった。私は雑多なレトロに埋め尽くされた店内をすこし見まわし、棚にある本類や招き猫などに挨拶をしてから暖簾をくぐった。
 銭湯から出ると、火照る身体に川沿いの涼しい風が吹き、心地がよかった。陽は少しづつ高くなり、早朝から朝へと変わっていた。
「んんー、気持ちよかったなぁ」
「ですね」
「いいでしょ、ここ」
「はい」
 高瀬川が朝の光に照らされるのを、橋の上から並んで見つめた。せせらぎと鳥のさえずり、清潔な石鹸の香りが、朝の京都をより澄んだ時間にしていた。
「ね、お腹空いてない?」
「あぁ……少しだけ、空いてます」
「じゃあ、喫茶店でも行きましょう」
 私は再び彼女のゆく隣をついていった。
 緩やかに曲がる木屋町通を北上し、5分ほど歩くと五条大橋を超えた先に西木屋町通という高瀬川沿いの細道がある。その入り口近くにある喫茶店を私たちは訪れた。
 その喫茶店は煉瓦作りの西洋風な建物で、彼女の雰囲気に少し似ているような気がした。アーチを描く窓が入り口のガラス扉上にあり、右手を見ると木枠の大きな出窓が高瀬川沿いに開かれている。その窓のすぐ目前には桜の木が伸びており、春頃には窓一面に桜が舞うらしい。花筏が流れる高瀬川がまた綺麗でね、と彼女が話すその風景のひかりを想像し、きっと綺麗なんだろうなと私は思った。
 高瀬川に面した窓側の席に座り、モーニングセットを二つ注文する。彼女はテーブルのお冷を一口飲み、光差し込む窓に視線を向けた。窓枠にあしらわれたデザインが、差し込む光に幾何学的な影を刻み、その意匠が窓下の鏡に反射して煌めいている。鏡の奥には青空が映っていた。
 店内へ視線を移すと、喫茶店の中にはあかりがあふれていた。深い優しさと穏やかさを幾重にも重ねたような、淡く柔らかな薄明。その薄明を身にまとうように、華水さんが目の前にいる。改めて、その非現実感と夢想めいた状況を不思議に思った。
 運ばれてきたプレートにはサラダとベーコンエッグ、そしてたっぷりのバターを身に染み込ませたトーストが乗っていた。彼女は「この染み込んだバターがじゅわってなって美味しいんだよね」と言い、小ぶりな一口を味わった。華水さんが美味しそうにトーストを齧っている、そんなことを私は、ふと思った。
 珈琲からのぼる湯気が次第に細くなり、時間の経過を揺らしていく。会話はそこそこに、食器やカトラリーの触れる音が静かな喫茶店に響いていた。

     *

「水は光の受け皿なんだよ。ほら、太陽の光も、言葉の輝きも、花の灯りだって、その水面で受け止めて、きらきらと水光の蜜が煌めいているでしょう」
 彼女は高瀬川の透明な水面を進みながら、うっとりと、けれど寂しそうに語った。

     *

「カルぺ・ディエム。その日その日の花を摘むように生きていたい」
 彼女は花の回廊を進みながら、行く先々の花びらを撫でた。

     *
     *
     *

「ね、カガミくん。私を飼ってよ。私はもう、人の手を離れては生きられない金魚になってしまったの。だから、カガミくんの手で私を飼ってよ。私は君の掌の中でなら、安らかでいられるような気がするんだ。」

     *
     *

「ふとね、」
「はい」
「ふと……そう、私は別に生きたいわけじゃないんだって思い出したんです。けどそれは、死にたいということでもない。それが私には分からなかったから、もうすべてがどうだっていいことのように思えたんだ。生きる意味だなんて尊いものじゃなくてね、存在する意味が、私にはもう分からなくなってしまったんです。ただ私がここに在り、これまでも、そしてこれからも私はわたしで在り続けるんだって思った。きっと私が生まれる前からも、そして死んだとしてもね。……だから私が感じる絶望は、果てしない宇宙のようだった。もしこの生、魂が私で在り続けるのなら、ならね、私の在るべき場所はどこなんだろう。……もしそこが、夜と朝の間隙のような優しく儚く寂しげで美しい瞬間であればよいのにって。瞬間に生き、そして瞬間を失い続ける私たち。私たちはきっと、一瞬のうちにその美しい瞬間を見つけて、ただそこに在ることを祈り続けていると思うんだ。」
そこで彼女は言葉を区切った。そして表情ひとつ変わらない彼女の涼しげな頬に、一縷の涙が伝った。
「……けど、わたしが祈るその一瞬は、わたしが生きてるこの世界にはもうなかったみたい」
 そう語る彼女の瞳を見た時、私は思った。きっと、彼女はここにいないんだ。水面に揺れる影を見ているように、彼女はここにいるけれど、本当の彼女はここにいない。
 それが、私の得た呼吸のような答えであった。

     *
     *

「蝶か金魚にでもなって舞い踊りたい気分です。日常なんていう退屈で長いものは、その袖で振ってしまえばいいわ。"大仰なダンス"でも踊って見せましょう。華麗に、けれども皮肉を添えてね」
 彼女は腕から手先を真っ直ぐと綺麗に伸ばしては暮色の空へと浮かべ、愛しき人の負った傷跡を優しく撫でるように、その虚空をなぞった。繊細なその跡から、今にこぼれ出しそうなほど張り詰めた、瑞々しいオレンジ色の光が浮かび上がり、それはやがてあふれて鴨川デルタを中心とした夕刻の京都を照らし出した。西の空に浮かんだ雲と、そのすぐ下に並ぶ山々の間から、眩いばかりの夕陽が姿を見せていた。それは金魚の尾鰭のように優美なヴェールで京都を包み、そのあたたかな黄金が彼女の端麗な横顔、その輪郭を染めていた。
 彼女はこちらへ近寄り、賀茂大橋の欄干にふわりと座って私を一瞥した後、後方の鴨川デルタへ振り向いた。彼女の奥には淡い光を受ける糺の森が迫り、次第に黒々とした影を帯びてゆく。その光が萎んでゆく様は、花が萎れていく退廃美にも通じる情念があった。ゾッとするほどに残酷かつ無常で、そしてどこまでも引き寄せられるような美しさ。その闇は次第に、夜の香りを放ち始めていた。
 鴨川デルタに集う人々は、無邪気な笑みと、誰かを呼ぶ優しい声々をこだまさせる。斜陽は鋭い赤みを帯びてゆく。鴨川は滔々と流れ、その瀬音ばかりが強調されるように研ぎ澄まされる。
 彼女のまなじりに落ちた影が、刻々と深まってゆく。まるで、夜はそこから始まるかのようであった。
「でもきっとだめね。私はどうしようもなく人間だし、こんな身体ではもう、美しく舞うことなんてできやしないのだから。だからせめて、せめてこの手からは、美しいものだけでも描くことができればよかったのにね……」
 彼女は左の掌を見つめて俯いた。彼女の切り揃えられた前髪が風に揺れる。その風はほのかにぬるく、手で掬うことができそうなほどに柔らかかった。にわかに陽が沈み、鴨川の水面に反射する紅い残照が、どこか別の世界へ誘い込む鏡のようだった。デルタにうごめく人々は、その紅い入口に浮かび並んだ飛び石を危うげもなく渡り、西へ東へと引き上げてゆく。凛々と、自転車がベルを鳴らしながら彼の後ろを通り抜けてゆく。夕藍に染まった空には、鳥がまばらに旋回していた。
 沈黙があった。静かな、けれども確かな沈黙。
 彼はその沈黙に、祈りのような安らぎと、そこはかとない無常感、そして果てのない彼女への愛を感じた。そして彼はその言葉を紡ぐため、口を開いた。
「—————————。」
 彼女が反射的に顔をあげ、その潤んだ表情———驚きと歓喜、そしてそれゆえの哀しみを滲ませた繊細微妙な表情———を刹那の光が照らし出した。赤いテールランプが蜃気楼のように遠ざかり、百万遍の方へと一台の車が走り去ってゆく。そして、続くように次々と流れてゆくヘッドライトの明かりが、再び俯いた彼女の頭を周期的に照らした。
「———無理だよ。それは、だめなの。私は、わたしは……独りになるのが怖くなって、でももう、この透明になってしまいたい気持ちを抑えることもできなくて……。私はカガミくんを、り、利用しようとしたんだよ。君の好意を、純粋な気持ちを踏み躙ってまでして、あまつさえ私はこんなに最低な———」 
「いいんですよ」
 彼の遮る真っ直ぐな肯定に、彼女の肩がわずかに揺れた。
 そう、それでいいんだと、彼は微笑んだ。彼はその結末を、彼女が東京にいる己のもとを訪れた時から、どことなく予知していたような気さえした。きっと最後まで、己の直向きな想いが甘く実ることはないのだろうと彼は悟っていた。けれど、それでもなおこの瞬間に彼女の側にいられることが、どれだけ幸せなことだろうかと、彼は安らかな幸福感に包まれていた。
 静かに顔を上げた彼女の瞳を彼は捉える。そして彼は彼女の隣、その欄干の上に腰をかけて彼女の手を取った。その白い手は微かに震えていた。きっと、彼の手も震えていた。
「このまま二人で、透明になりましょう」
 穏やかな京都の宵口、鴨川のせせらぎに、一滴の水が静かに堕ちた。

     *
     *
     *

 彼女はオルゴールを耳元で回しながら、そこから流れる音に耳を澄ませた。
「わたしはこのオルゴールみたいなものね。誰かが回し続けなくては音は出せない。けれど、誰かが回してくれている時、わたしはわたしの存在を確かめることができるような気がする」
「カガミくんは、いつまでわたしという存在を鳴らしてくれるのかな」

     *
     *
     *

「宵山はいいよ。京都全体がふわりとお祭り色に包まれていて、その辺りに金魚が泳ぎ始めるんだ。幻想的で、私も橙と紫の入り混じったお祭りの中を泳いで行くんだ」
 彼女のその話を聞いて、私はその優雅に通りを進む彼女の姿を想起した。
「いいですね、今年は、一緒に行けたら、嬉しいです」
「……そうだね。きっと、行こうか」彼女は私を見ずに微笑み、そう答えた。
 その言葉はどこかふわふわとしていて、遠くから聞こえる祭囃子のように、所在なさげであった。

     *
     *
     *

「私は月に。君には6ペンス銀貨を」

     *
     *
     *

 目が覚めると、私は清潔な真白いシーツの上で朝日に包まれていた。朝が訪れていた。
開いた窓から、瑞々しい朝のそよ風が柔らかにカーテンを揺らしている。一瞬に響いた風鈴の音が、私の意識を現実に戻した。その意識の焦点が合った時、私の聴覚が世界の音を拾い始めた。小鳥のさえずり、遠ざかる電車の響き、、街の音々、人の声———隣の部屋から、テレビの音声がどこか白々しく聞こえていた。その内容は、渡月橋から受水を謀ったとみられる女性の遺体が発見されたという内容だった。
私は鰭のように揺れるカーテンから見え隠れする、透明な金魚鉢をただ眺めていた。

     *

   
 満月が夜空に灯る。月の弧に刹那の煌めきが走った後、その先端から滴るように、淡い光を放つ黄金の水———月の水が垂れた。それは夜の海を撫でながらまっすぐと落ちてゆき、そして銀河の鏡となった水面へと注がれてゆく。
 その銀河をつくる星の一つ一つは、色とりどりの美しい花々であった。胡蝶蘭、コスモス、カサブランカ、椿、ダリア———彼女の好きだった、あの花たち。
水面に揺籠のような影が浮かんでいる。それは一隻の方舟で、優しい夜風を受けながらその月華の河を渡ってゆく。そこには彼女の姿があった。
 舟は進む。ただ、進みゆく。
 揺蕩うように穏やかな魂と、幾億年の祈りを乗せて。
 月の浮かぶ透明な水面を、静かに揺らしながら。

穏やかなるこの想いよ
ついに一輪の花となれ———

いつか花となる風を、この言葉で紡ぎます。
優しく穏やかな静寂の中で、静かな喪失と孤独に向き合い続けていく。
そこに灯るあたたかな揺らめきを見つめながら。


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