胡桃堂喫茶店

特集・皐月篇[令和七年]心がデカめに動いたとき

ふたつの涙

ユキコ

「アマノさん、ちょっと。」

張りつめた表情の訳がよくわからないまま、部長の後に続いて廊下に出た。

そこに、いとこのカナが立っていた。

「ユキ、まーちゃんが倒れたって...。すぐ病院行って。」

 

フワフワした。体の感覚が溶けるようになくなって、どうやって立っているのかもわからなかった。ただ、ついにその時が来てしまったと、どこかで思っていたような気もする。それが嫌だった。

病院には電車で向かったほうが速いからと、カナとはその場で別れて、立川駅から青梅線に飛び乗った。

ガンになった後も、お医者さんの言うこと聞かないで毎日お酒飲んでさ...。なんでこうならないとわかんないんだろ。ほんっとバカでしょ。普通に。

周囲の人に気づかれないように、勝手に溢れてくる涙を拭った。

 

私が病院に着くと、父はすでに集中治療室に入った後だった。

 

頭が痛いと言っていた父は、母に連れられて病院に来ていた。そうして診察の直後、待合室で倒れた。クモ膜下出血だった。

 

 

どのくらい時間が経っただろう。応急処置を終えたものの、父はまた別の手術室に運ばれ、クモ膜下出血の手術を施されるとのことだった。

看護師の人たちは、ほんの一瞬、父を乗せた担架を運ぶスピードを緩めた。

「パパ...」

父はたくさんの管につながれて、むくみ切った顔をしていた。

 

クモ膜下出血は、2週間がカギ。2週間でどれだけ回復するかが、その後の生活にかかっていると、担当医は説明した。

この日から、病院に通う日々が始まった。仕事終わりに、時に母、時に弟と病院で待ち合わせて、父の様子を見に行く。

 

術後、数日で父は目を覚ましたけれど、ただ虚空を見つめているだけだった。意識が戻ったと言える状態ではない。

 

「ねぇパパ、わかる?ユキだよ。」

「話してることわかってんのかな。」

「ねー。でも話しかけるとさ、眼球が動く感じするよね。」

「反応してんのかな、よくわかんねぇ。」

こんなやり取りを何日繰り返しただろう。

 

この日は弟と来ていた。

「パパ、ユキの言っていることわかる?わかったら、目で合図して!」

 

すると父は、思いっきり、目をギューッと瞑って見せた。

わたしと弟は、あっけにとられて顔を見合わせた。

 

 

「ねぇパパ、今日ママ出かけてるから、お昼に最近できたスンドゥブ専門店行かない?」

「あそこか、いいよ。」

以前の父は、無口で短気、ぶっきらぼう。でも、病気をしてから父はやさしくなった。

ただ、以前にも増してせっかちにもなった。どこかに出かける時、私の運転を酷く嫌がる。遅いらしい。新青梅街道の渋滞はぜんぶお前のせいだ、とさえ言われている。

この日も父の運転で、スンドゥブを食べに向かった。わたしはいつものように助手席でスマホを適当に眺めていた。

「やばwwww今、エックス見てたらヤバおもろい投稿見つけたwww」

「なに。」

「『なんで人って、わざわざ辛いもん食って、わざわざ辛いウンコすんだよ。バカだろ』ってwwwwwww」

「ブフェ――――――――ッッ!!!!ングーーーーーー!!!!」

父は、病気をしてから妙な笑い方をするようになった。

「ねぇその笑い方ほんとやめてwwwww」

「フンァ、フンァ、ブフェ――――――――ッッ!!!」

ふたりで涙を流しながら笑った。

 

 

この時わたしは、6年前、目を覚まさない父に送ったLINEのことをすっかり忘れている。それはきっと、父も同じ。

その代わりに、わたしたちは、この時期に咲く、母が丁寧に手入れをしたバラを愛おしみ、日々を過ごしている。

ときどき、バカみたいに大笑いしながら。

ユキコ

編集者、アンティークショップ店主。
東京 西多摩地区に暮らす。


「暮らして働く」国分寺のひとびとに魅せられて、国分寺移住を計画中。手作りのパンやお菓子をみんなに食べてもらう日々を過ごしたい。編み物もすき。


Instagramアカウント:@yukikoamano


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