「アマノさん、ちょっと。」
張りつめた表情の訳がよくわからないまま、部長の後に続いて廊下に出た。
そこに、いとこのカナが立っていた。
「ユキ、まーちゃんが倒れたって...。すぐ病院行って。」
フワフワした。体の感覚が溶けるようになくなって、どうやって立っているのかもわからなかった。ただ、ついにその時が来てしまったと、どこかで思っていたような気もする。それが嫌だった。
病院には電車で向かったほうが速いからと、カナとはその場で別れて、立川駅から青梅線に飛び乗った。
ガンになった後も、お医者さんの言うこと聞かないで毎日お酒飲んでさ...。なんでこうならないとわかんないんだろ。ほんっとバカでしょ。普通に。
周囲の人に気づかれないように、勝手に溢れてくる涙を拭った。
私が病院に着くと、父はすでに集中治療室に入った後だった。
頭が痛いと言っていた父は、母に連れられて病院に来ていた。そうして診察の直後、待合室で倒れた。クモ膜下出血だった。
どのくらい時間が経っただろう。応急処置を終えたものの、父はまた別の手術室に運ばれ、クモ膜下出血の手術を施されるとのことだった。
看護師の人たちは、ほんの一瞬、父を乗せた担架を運ぶスピードを緩めた。
「パパ...」
父はたくさんの管につながれて、むくみ切った顔をしていた。
クモ膜下出血は、2週間がカギ。2週間でどれだけ回復するかが、その後の生活にかかっていると、担当医は説明した。
この日から、病院に通う日々が始まった。仕事終わりに、時に母、時に弟と病院で待ち合わせて、父の様子を見に行く。
術後、数日で父は目を覚ましたけれど、ただ虚空を見つめているだけだった。意識が戻ったと言える状態ではない。
「ねぇパパ、わかる?ユキだよ。」
「話してることわかってんのかな。」
「ねー。でも話しかけるとさ、眼球が動く感じするよね。」
「反応してんのかな、よくわかんねぇ。」
こんなやり取りを何日繰り返しただろう。
この日は弟と来ていた。
「パパ、ユキの言っていることわかる?わかったら、目で合図して!」
すると父は、思いっきり、目をギューッと瞑って見せた。
わたしと弟は、あっけにとられて顔を見合わせた。
*
「ねぇパパ、今日ママ出かけてるから、お昼に最近できたスンドゥブ専門店行かない?」
「あそこか、いいよ。」
以前の父は、無口で短気、ぶっきらぼう。でも、病気をしてから父はやさしくなった。
ただ、以前にも増してせっかちにもなった。どこかに出かける時、私の運転を酷く嫌がる。遅いらしい。新青梅街道の渋滞はぜんぶお前のせいだ、とさえ言われている。
この日も父の運転で、スンドゥブを食べに向かった。わたしはいつものように助手席でスマホを適当に眺めていた。
「やばwwww今、エックス見てたらヤバおもろい投稿見つけたwww」
「なに。」
「『なんで人って、わざわざ辛いもん食って、わざわざ辛いウンコすんだよ。バカだろ』ってwwwwwww」
「ブフェ――――――――ッッ!!!!ングーーーーーー!!!!」
父は、病気をしてから妙な笑い方をするようになった。
「ねぇその笑い方ほんとやめてwwwww」
「フンァ、フンァ、ブフェ――――――――ッッ!!!」
ふたりで涙を流しながら笑った。
この時わたしは、6年前、目を覚まさない父に送ったLINEのことをすっかり忘れている。それはきっと、父も同じ。
その代わりに、わたしたちは、この時期に咲く、母が丁寧に手入れをしたバラを愛おしみ、日々を過ごしている。
ときどき、バカみたいに大笑いしながら。