胡桃堂喫茶店

特集・卯月篇[令和七年]

水と私と父と命と

日々のひとしずく

「水」という言葉を聞くと、どうしても書かずにはいられない。
思い浮かぶのは、実家のこと、父のこと。

父は生前、小さな熱帯魚屋を営んでいた。
我が家の一階が店舗で、そこにはいくつもの水槽が並び、
大小さまざま色とりどりの魚たちが無数に泳いでいた。

私はそんな家で育った。

こう書くと、ひょっとしたらやや優雅に聞こえるかもしれない。
でも現実はそんなことはなく、店舗は10坪ほど。
熱帯魚屋というより、いわゆる金魚屋。
口数少ない父が細々と切り盛りする、昭和の香りがムンムンと漂う店だ。

ちなみに私は、魚には全く関心をもたずに育った。
正直、そんな父の仕事をどこか恥ずかしく思っていたことさえある。

そんなある日。
就職して数年経った20代後半くらいの頃だろうか。
父が肺結核と診断を受け、数ヶ月入院することになった。

当然のように、父の留守中は、私と妹が魚たちの面倒を見るように頼まれた。
やることは朝と夜、1日2回の餌やり。水槽の水換え。
何も知らなかった私たちに、入院直前の父が丁寧に、餌やりの量、水換えの方法、タイミングを教えてくれた。

それでも父不在中は大変だった。
夜、職場から帰って餌をやりに水槽に目をやると、息絶える寸前のふらふらとした魚たちが目に入る。
明朝にぷかりと浮かぶであろうことは容易に想像がつくけれど、
まだ生きている魚を掬い出すわけにもいかない。
なんとも言えない気持ちで朝を迎え、浮いた魚たちを黙って網で一気に掬い出す。

無力感。素人では太刀打ちできない。
父にも申し訳ない。命にも申し訳ない。
魚の存在を疎んじていた自分も悲しい。

何とも言えない申し訳なさを抱えて、私は父に『死にました』とメールを送った。

父の返事は、「生きとし生けるもの、いつかは皆、命絶える」だった。
文末に軽い顔文字がついていたかもしれない。

メールを見て、妹とクスクス笑ったのを覚えている。
私を責めることなく、達観とユーモアの混ざる父らしい言葉選びに、
私たちはどこか安心し、救われもした。
これがナチュラルな、父の優しさだ。

父も父で、自身の入院生活と重ねて浮かんだ返信なのかもしれない。

もう一つ。父の入院中のある日のこと。
朝、母から「アジアアロワナの水槽、水位が勝手に下がっていくの!ちょっ見て!」と言って起こされた。

妹と店に降りる。
我が家で一番大きな、180センチの水槽でゆらゆらと泳ぐアジアアロワナ。
水位が、なんと魚の数センチ上までに下がっている。
減っている!水漏れ?

原因なんて考えている暇はない。
とにかく父に緊急で電話し、父からは、他の大きな水槽に移すよう伝えられた。

移す?!
体調1メートルくらいあるアジアアロワナを、どうやって素人が移すというのだ。

とはいえ、やるしかない。
妹と真剣に作戦を練った。
店で一番大きな網を引っ張り出し、
「私がここを持つからアナタはこちらを持って」
「これで蓋しておさえる。もし失敗してアジアアロワナが床に落ちたら、いち早くこれを…」など、
とにかく入念にイメージした。

体調1mを超えるヤツが、床に落ちて暴れたら終わりだ。
そう考えるだけで背筋が凍った。

これほど姉妹が、お互いを信頼し、力を合わせたことはなかったように思う。

とにかくイチかバチか!掛け声と共に掬いだし、引越しに成功した。
その瞬間、全身にかかっていた力が一気に抜け、ふっと肩の力が抜けた。
今でも、その感覚を体の奥で感じる。

父は退院し、お店も再開した。
何事もなかったかのように、私は日常に戻った。

ある日、帰宅してふと水槽に目をやると、あのアジアアロワナの入った水槽にヤツがいない。
…売れた。

売れたありがたさより、心に空いた穴の方が大きかった。
そういえば、私が世話した他の魚たちも、何匹かは家からいなくなり、新しい魚たちが仕入れられていた。
私は、帰宅すると、魚に目をやるのが日課になった。

ある時父に「お父さんは、魚が好きだから熱帯魚屋を始めたの?」と聞いたことがある。
父は、「まあ、嫌いじゃ始められないな。でもいつまでも好きだと思っていたら、売ることができないな…。寂しくなっちゃってたら商売にならないな」
と答えた。

父は、ほとんど自分の過去を語らない人だったけれど、この言葉には、彼のこれまでの喜怒哀楽や、積み重ねてきた経験がふっと滲み出ているように感じた。

今、街で美しい熱帯魚を見かけると、ふと足を止めて見入ってしまう。
あの頃、何気なく通り過ぎていた魚たちに、今では心を寄せている自分に気づく。
そして、もしかしたら、亡き父にその姿を見せているのかもしれないと感じる。

日々のひとしずく

国分寺在住。少しずつ、地域と繋がりを育んでいきたい。
時々、頭にふっと降りてきたことをわわわーっと文章にする作業が好きです。