喫茶店のあかり
喫茶店にはあかりがあふれている。
それは、深い優しさと穏やかさを幾重にもかさねた、淡く柔らかな薄明。
または、静かな灯火のようなあたたかさ。
過去や未来、現在の時間が喫茶店という空間を共有し、人々の文化と共に、その情念をじっくりと抽出している。
それは喫茶店が誇る一杯の珈琲のように、それぞれがそれぞれのあかりを醸す。
孤独を照らすあかりの中で、深く重たい珈琲を口へと。
絹のように滑らかであり、どこまでも沈むような夜が渚をつくる。
そして言葉は浮かぶ。
静かに、繊麗に。
己自身の言葉が欺瞞で飾られ、思考がどこまでも形をなさないという絶望の中で、私は一体何を表現すれば良いというのだろうか。
私は一体どこに生きている。むしろ、何が私を生かしているというのか。
失っていることが何よりの救いとなるのであれば、自らの手で喪失するといい。
希望は儚く、また脆い。
そして私が触れるには、あまりにも美しすぎる。
実は表現したいことなど何にもないのかもしれない。
どこかで生き方を間違えているのかもしれない。
大切なものなど、とうの昔におき忘れてきてしまっているのか。
二度と、幸せになることなど、いや、幸せを求めることなど許されぬことなのかもしれない。
それは酷く哀しいことである。
なぜ私は言葉に、己自身に向き合おうとするのか。それは人間の本来あるべき姿であり、失ってはいけない重要な生きるということに通じているはずだ。しかし、私は己の人生を生きていると果たして言えるのだろうか。それは、きっとその限りではないだろう。なぜなら私は、常に矛盾を抱えながら生きている。どこまでも中途半端に、小難しく、けれど空っぽな人生を歩むのだろう。孤独の中で、誰に救われることもなく、静かに、穏やかに、枯れていく。消えてゆく。やりたいことなど、もう何もないのかもしれない。いつだって死を迎え入れようとしているのかもしれない。誰か、こんな私を愛してくれるのだろうか。愛される資格などない私に、無償の愛を捧げてくれる人は、いるのだろうか。孤独は怖いか?静寂を怖れるのか?私は何のために生きるというのか。それは誰しもが考えることだ。誰もが考えることを考えるのは嫌いだ。けれど、嫌いだと思うことは、あまり好きではない。けれど、やっぱり他人と同じことは嫌だと今でも思う。誰かにとっての特別でありたい、自分を認めることができる人間であり続けたい、と、思うかどうかはわからない。私は自分を認められなくても良いとすら思っているのかもしれない。そんな諦観の中で私はずっと生きている。それだけが、私をこの得体の知れない憂鬱から守っていてくれるのだろうか。いまだに、この世界を美しく描くことはできていない。人の心を捉えることすら碌にできていない。言葉を綴ることも、誰かに伝えることも、何もできやしないこの苦しみ。途方のない哀しみと、失なうことへの絶望。葛藤。後悔、そして喜び———。
青い光
誰の言葉もない、静かな湖畔
昨日の後悔はあぶくとなり
明日の願いは水面に映る
麗らかないのちを
その筆先は繊麗に描き出す
奥深く、まだ知らぬ静寂の中に
その青は浮かんでいる
穏やかな囁きと
沈黙の祈りを
その愛しき、喪失に