胡桃堂喫茶店

特集・水無月篇[令和七年]ファンタジー

大きなシステムと小さなファンタジー

魂という名の野生動物

「きっかけは、イエズス学会のシンポジウムで啓子さんの話を聞いてからです。ゆかりのことがあって、あたしも被害者の会で戦おうと決めた頃でした」

 女がちゃぶ台の上に1枚の紙を置く。棒グラフの表だ。 

「インフルエンザワクチンの製造量を調査した資料です」

 男が棒グラフの一本を指さす。

「そこが始まりです、1962年。学童防波堤論の名のもとに、小中学校の接種が始まりました。すべて公費で負担されて、学童は全部が無料です。ところが、そういうシステムをやっているのは日本だけだってことが最近、わかりました」

 女が立ち上がり、暖簾をくぐって台所へ向かう。

「ワクチンが初めてできたのは1954年だそうです」

 女が声を張った。台所で湯を沸かしている。

「最初は国鉄の職員や警察官など、仕事を休むことができない人が接種するという話でした」

 沸いた湯を急須に注ぐ。

「ところが一向に誰も打たない事態になって」

 暖簾をくぐった女がちゃぶ台に戻ってきて、男の湯飲みにお茶を入れる。

「あたしも詳しいことは、わからないんです。ただの主婦ですし……でも、ゆかりがああなってから、何かおかしいって。あっ」

 女の手元が狂った。

「ごめんなさい! 大丈夫でしょうか? ズボンにかかりました??」

 男は笑って、両方の手のひらを見せた。

「よかった。あたし……すみません。疲れているのかな。下の子が生まれたばかりで、主人はほとんど家にいないこともあって。でも、このまま泣き寝入りなんてしません。被害者の会でも、あたしのような人は増えてきました。一緒に、頑張ろうって」

 男がもう一度、棒グラフの一本を指さす。

「そこからですね。ワクチンメーカーを含め、学童防波堤論という名のもとに義務教育で一斉に、バーンと」

 男が、せんべいをかじった。

「学校でインフルエンザを抑えればお年寄りに行かないって。社会全体に広がらないって話で」

 男の咀嚼音そしゃくおんが響く。

「それなのに、流行は一向に収まらない。身体の弱い子には打てないし、アレルギーがある子や、しょっちゅう学校を休むような子も打てない。危険だから打てないって。それで先生たちのなかでも『おかしいね』って話になって。反対に、ゆかりみたいな健康な子が打つわけです」

 ピーっと、ヤカンが音を立てた。女が立ち上がって台所へ向かう。

「お友達から聞いた話ですけど――」

 台所の奥から女の声がする。

「製造量を確保するための、売れ行きを確保するための学童防波堤論なんじゃないかって」

 戻ってきた女がお盆を置いて、せんべいをかじった。

「噂ですけどね」

 ぽろぽろとこぼれる欠片を拾い、お盆の上に集める。

 男が腕組みをといて、カメラを持った。

「いいですけど、よかったらFAXで送りましょうか? 」

 ファインダーから顔を上げた男の目は輝いて見える。

「必要なら被害者の会に話して、もう1部もらうこともできると思いますけど」

 立ち上がりながら、男が小刻みに顔と手を横に振ると、頭を何かにぶつけた。何かが足下に落ちる。

「大丈夫ですか? 糀谷こうじたにさんも背が高いんですね。主人と同じくらいありそう」

 男が額縁を拾い、柱に掛けようとした手を止める。額の中身を見て、動きが固まった。

「よくご存じですね、今どき珍しいです」

 男は額縁を柱に掛けることを忘れ、額の中身を見ては女の顔を見て喋る、ということを繰り返した。

「和歌や短歌が、お好きなんですね。狭いですけど隣の和室に、もっとありますよ」

 女が顔を緩めた。白い歯を見せながら立ち上がり、男の後ろのふすまを開ける。すると畳の上は額縁の山だった。広さは四畳半。男はカメラを片手に立ち尽くした。よく見ると、大きさや材質の違う大小の額縁であふれていた。

「全部、主人の作品です。あんまり家には帰って来ない人ですけどね」

魂という名の野生動物

「ない」「足りない」という世界観だった私に、影山知明さんは「すでにある」ことを教えてくれました。探していたものは、もうあった。そのときの体験を童話風にアレンジにしたのが【思い出のケーキ】という作品です。【喫茶「店と花」】という作品は、読みかた次第でエンディングが異なります。別れの物語として読むか、出会いの物語として読むかです。これに【あかちゃんになる】を連作として読む、という余白、遊びを残しました。【喫茶「店とまち」】の舞台はブエノスアイレスで、年代は1960年代の前後です。短歌にはリアル店舗を忍ばせてあります。夜の『喫茶「店とまち」』から聞こえてくるのが【ポル・ウナ・カベッサ】です。【アフリカローズ】と【店と花】には、同じバラが使われています。【サン・イシドロ/ブエノスアイレス】と【東国分寺/東京】と【サーキュラーキー/シドニー】の3作品は、すべて違う時代です。【水を入れますか?】に注意を払うと、物語全体に奥行きが生まれます。作者にとっての【心がデカめに動いたとき】は至福です。【大きなシステムと小さなファンタジー】は氷山の一角に過ぎません。


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